「紀伊国名所図絵」より

「紀伊国名所図絵」より塩屋に関する記述を抜粋

「紀伊国名所図絵」は文化八年(一八一一)にまず第一遍三巻が発行され、文化九年(一八一二)、天保九年(一八三八)、最後に嘉永4年(一八五一)に後編第六巻がでて都合十八巻として四十二年の長きにわたって刊行された江戸時代の代表的な名所図絵である。絵は西村中和、小野廣隆、上田公長によって描かれた。近年、和歌山の姿は変貌したが、地形や地名は変わらず生き続け、「紀伊国名所図絵」は江戸時代の魅力を生き生きと伝えてくれる。

○日高川
熊野官道山田荘名屋浦より、北塩屋枝郷(えだごう)天田村へ渡し船有り。天田の渡しという。水源は山地の荘大和国の堺(さかい)、及び在田(有田)日高二郡の堺の山中より発して、諸荘を経て北塩屋浦にて海に入る。左右より支流の湊合するもの、挙げて数えられない。海口より大和の国の堺の源まで、陸地は二十里ばかりといえども、川道は四十八里という。その屈曲多きをしるべし。
草根集より
さしのぼる 日高の河も解けやらで 氷を砕く 紀路の旅人   正 徹
たのめても いまだ日高の河波に 夕暮れいそぐ 春の雲霧        同
道成寺縁起(どうじょうじえんぎ)に曰く
日高川という川に、折りふし大水でて、この便船にて渡りぬ。舟渡しにいうよう、かかる者の只今追いて来たるべし。定めてこの船に乗らんと言わずらん。あなかしこあなかしこ、乗せ給うなと言いけり。この僧は急ぎ逃げけり。あむの如く来たりて渡せと申しけれども、舟渡しわたさず。そのとき衣(きぬ)を脱ぎ捨て、大毒蛇と成りてこの川を渡りにけり。舟渡しをぼちけしと申して、岩内にありけると日記には確かに見えたり。

○山田荘(やまだそう)
岩内荘の下流にありて、九か村をよぶ。元和六年の洪水に日高川 南に移りしかば、名屋の一村は裂かれて川のこなたに割居す。

○紀道明神社(きどうみょうじんのやしろ)
川より北の路傍にありて、名屋浦に属す。当社もとは川上荘三百瀬村にありしが、元和6年の洪水に流れ来て、この地の松樹にかかれるを元の村に返しけるに其の後の洪水にも又漂流して、再び以前の松樹にかかれるより、村民不思議の思いをなし。船着明神と拝め、元は森岡村の武塔天神の氏下となりしが、この時より当社をもて氏神とすといえり。

○蟹田山(かにだやま)
天田、北塩屋村の間にあり。「御幸紀」に岩内王子を拝し給いて、山を越えて塩屋王子に詣で給うとある山は此の蟹田山を指していえるなり。これ古(いにしえ)の熊野路にして、今も小栗街道(おぐりかいどう)といい伝う。山上より望むに郡中の諸荘(しょそう)眼下にありて、川口、日ノ御碕などの景色言わんかた無く、亀山古城跡の眺望に次ぐべし。

○熊野川(ゆやがわ)
源は熊野村より出で、天田、塩屋の間、熊野路に小橋を渡す。

○塩屋浦
王子川を隔てて南北二村に分かる。「道成寺縁起」に塩田(しおはま)の図をだして祠書きに、ここは塩屋という所と云えれば、その頃までも塩をやきし事しるきにこの技いつよりかたえけん、詳かならず。然れども王子川の橋より、むかし塩を煮しと言い伝う所ありて塩竃の掛けたるを掘り出し事もありと言えり。

夫木抄より
沖つ風 塩屋の浦に 吹くからに のぼりもやらぬ 夕煙かな
第三のみこ
歌枕名より
こととはむ 塩屋の里に 住むあまも  我がごとからき 物や思ふと
中務卿親王宗尊
としなみ草より
うしや今 塩屋ときくも 所からき  旅立ちに行き やむ身は
似雲
○塩屋王子祠(しおやおうじのほこら)
北塩屋に属して、王子川のかたにあり。土人美人王子という。その義(ぎ:意味)詳か(さだか)ならず。境内に御所の芝という所あり。後鳥羽院の、行在所(いでましどころ)の跡という。大塔宮 熊野に潜行し給い時も此のところにて一宿し給いとぞ。
千載集叉曽詞花集 より
白河法皇熊野へまいらせ給ひける御供に て、塩屋の王子の御前にて人々歌よみ 侍りけるに
思うふ事 汲みてかなふる 神なれば    塩屋に跡を 足るゝなりけり               後二條内大臣
新古今集より
白河院野に詣で給えけるに御供して、 塩屋の王子にて歌よみ侍けるに
立ち登る 塩屋の煙 浦かぜに
なびくを神の 心ともがな             徳大寺左大臣

○王子川
王子祠の南に小橋を渡す。この川源は明神川より流れ出でて、熊野川と合して日高川に落つ。

○富島(とみしま)
この地今だ詳かならず。説、権現磯の條下(くだした)に見ゆ。

○権現磯(ごんげんいそ)
南塩屋の海浜をいう。この地鹿背峠より日ノ御碕に至るまでの連山、海面に横たわり、、日高川の海口と尾の崎とを左右に擁し、鰹島中央に浮かびたり。海磯の磐頭に、景色のある松の一株たてるを権現松と言いて、熊野神宮の跡と言い伝う。思うに建暦(けんりゃく)の文書、薗寶郷(そのたからごう)の四至を書して、南は甘田(あまだ)、亀石、富島を限るとあり。甘田は今天田と書し、亀石は近頃まで海口の亀の形ある磐ありしに、土砂に埋没せしという。然して富島の名は知るものはなしといえども、甘田、亀石に接する地に似たれば、この磯邊の事にあらんか。かつこの磯もとは離れ島なりしとも言い伝うれば、この磯も離れ島なりしとも言い伝うれば、かたがたよりどころあり。然るときは「人車記」に見えたる富島御宿もまたこの地にやありけん。

○産物沖牡蠣(さんぶつおきがき)
この辺りの海底に多し。三四月頃専これを捕る。よの常の牡蠣より形大にして、七八寸ばかり、美味なり、「びん書」に草牡蠣と見えたるものなりといえり。

○武塔天神社(ぶとうてんじんしゃ:現須佐神社)
同村にあり。七か村の産土神なり。祀る神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)とも天満宮ともいう。古き祭文あり。その文によれば天満天神・武塔天神・蔵王権現の三座を祀れるなり。祭礼正十月十日。氏下の各村より、十五歳男子一人づつ、輪次にこれを勤む。その祭りを御當(ごとう)と名づく。御當は輪次にその年の祭主に当たれる義なるべし。その日大なる幣(ぬさ)を捧げて、神前にてこれを振る式あり。そのわざをさして御當(ごとう)という。