ぶろぐ/2020 

宮子(藤原宮子) 

今から25年ほど前に勉強した郷土史の資料がでてきました。「川端氏古代史を語る 出雲文化圏と和歌山文化圏の関わり。」の一部「宮子」です。川端さんは紀氏の直系に当たります。当時、理解できませんでしたが、今となっては貴重な資料です。 宮子姫 お姫さんは日高紀氏から出た人が聖武天皇のお母さん。宮子ミヤコ。これ、藤原氏に養女にいれて、うちからでとるんよ、宮子はね。郡司の家から全部女官を取ったもんやから。郡司にはね、大領,少領、主政、主帳と4家あるんです。この中で天皇家でお后で迎えてくれるのは、大領と少領とふたつだけですのや。昔はほとんどがそおいう我々のような天皇家とつながりのある家系でないと皇后さんは入れなんだんです。ところが藤原不比等、これがそのうちの宮子を養女に入れてね、これを文武天皇の皇后にいれてしまうんや。藤原の宮子言う名前で。それで出来た子が聖武天皇や。そう言う家系やね。  それでね、宮子の出生をね、向こうの土地ではね海女の娘でものすごい髪の毛が長くていい髪しとって、時の天皇がすずめの咥えてきた長い髪の毛を見て、こんな立派な髪の毛をもっとる女やったらさぞかし別嬪やろ、それを連れて来い言うて,行ったんが宮子やいうお伽話になっとるけど。海女の娘ごときは、便所の掃除もさしてくれなんだんや。宮中に入るいうことは。それほど宮中は、家系いうものを大事にしとったから。これはお伽噺で、土地の伝説では髪の毛がながくて、<かみなが姫>と言う名前であれした、という事になっとる。そやけど、ほんまは違う、私のところのような地方の豪族出は、なんぼ家がしっかりしとっても、藤原氏にはかないません。藤原氏は宮子を入れてからですよ、どんどん藤原氏からお后キサキを入れたのは。最初はうちの娘を連れて行って、藤原の宮子という事にして、文武天皇に嫁に行かして、それから藤原氏がどんどこ。それから,紀伊氏は100年ぐらいは続いてますな、お后で、紀の何々ちゅうて名前でいってますわ。仰山入ってますんやで、うちは、天皇家へ。

塩屋 塩屋いうのは土地の人とか古老やな、塩を製造しとったから塩屋という名前だ、とこう言うのやな。もっともな事で塩もやっとんね、そやけど和歌山県で塩の一大生産地いうたら、我々の村からちょっと南に寄ったところに南部の千里浜いうところがあるんですがそこの塩の生産いうたら大変なものですのや。それと和歌山市の周辺に塩を製造した。これはもう、大変な塩の産出量があったんです、6世紀からズーとね。そやけど、我々荘園側の塩なんてよそに持って行くほど、沢山の塩はなかったんです。ただ、塩を製造するのにつけて塩の部族が居るんです。それが仁徳天皇のお后(オキサキ)やった、八田部郎女(ヤタベノイラツメ)てこういうお后がいます、これはもうやきもち焼きで有名だけど。この人の部族が塩を専門に製造しとったんです。そいで若狭の国から紀伊の国それから播磨の国まで、この八田部ヤタベ氏というのが塩を統括しとったんです。それが日高へ来て塩を焼いたもんで、その塩をときの藤原京に送った木簡が出てきてますんや。  日本の人類学者に言わせたら、近畿地方はほとんど出雲族ですね。出雲は、瀬戸内に何箇所も根拠地を置いてますよ。それでね、兵庫県に塩屋いう所がありますわな、それから日高にも塩屋があって、伊勢にも塩屋があります。これらは、ほとんど出雲族の根拠地です。出雲族いうたら朝鮮と言ってもいいくらいやで。昔、大正時代まで出雲族は換骨(ホホボネ)が出とったんやもん。それがミックスしてしもうてね、低くなってきたけどね。韓国人は、ほほ骨が高い、特に済州島の人間なんか特にこれがきつい。だから、大正時代までは、ほとんど朝鮮系の骨格だったんです。  六世紀になったら出雲全部を太氏が統括するんです。そしてあそこの、熊野神社を紀州の方に直接塩屋村に熊野神社を持ってきたんやけどね。持って来てそれから新宮へ移したんやけどね。これは奈良時代の古文書に、新宮の速玉ハヤタマ神社の古文書にそれが出てます、うちの村から速玉神社のご神体を持って出たいうて。出雲族の根拠地でしたんですけどね、日高郡で塩屋村ていうところは。

紀臣家のお姫さん・宮子姫・竃門娘・紀橡姫

紀臣家からは宮子以外にも多くに人が宮中に入っています。日本霊異記にある紀橡姫もその中のひとりです。橡姫は紀朝臣麻呂(=道成)の弟・国益の孫に当たり光仁天皇を産んでいます。天田古墳群30基は、出土品から分かるように、全て紀氏と紀氏の前身である金刺氏の関係です。  それと、年表を見てもらうとわかるのですが、697年1月に文武が即位します。その時、宮子を含めて3人お嫁さんを取ります。宮子が夫人で、宮子の妹の竃門娘(かまどのいつらめ)と石川刀子娘(いしかわとすのいらつめ)が第二夫人として入ります。この時代、髪長姫にあるような「宮子が漁夫の娘で別嬪で連れてこい…」というシンデレラ物語は絶対にありえということが、わかってもらえたかと思います。

それと、年表を見てもらうとわかるのですが、697年1月に文武が即位します。その時、宮子を含めて3人お嫁さんを取ります。宮子が夫人で、宮子の妹の竃門娘(かまどのいつらめ)と石川刀子娘(いしかわとすのいらつめ)が第二夫人として入ります。この時代、髪長姫にあるような「宮子が漁夫の娘で別嬪で連れてこい…」というシンデレラ物語は絶対にありえということが、わかってもらえたかと思います。む   延暦年事 紀の直吉足(きのあたえよしたり)は紀伊の国日高の郡、別の里塩屋の梯家長(はしのいえぎみ)の公なりき。

紀橡姫(きの とちひめ)正一位・太政大臣 紀諸人の娘。光仁(こうにん)天皇の母。和銅2年施基(しきの)皇子との間に白壁を生み,同年9月14日死去。没後の宝亀元年(770年)白壁王が即位したことから、王が天皇に即位した翌年の宝亀2年皇太后を追贈された 岩波書店「日本霊異記」 光仁天皇の御世の宝亀六年(775)、乙卯の夏の六月十六日に、天俄に強き風吹き、雨降り潮 (みなと)に大水漲いて雑の木を流し出す。紀万呂の朝臣に遣りて流れる木を取らしむ   延暦年事 紀の直吉足(きのあたえよしたり)は紀伊の国日高の郡、別の里塩屋の梯家長(はしのいえぎみ)の公なりき。