野島の「八咫烏伝説」

野島の「八咫烏」 御坊市野島
大昔、野島に「八咫烏」と自ら称した、色の黒い人々が住んでいた。 「八咫烏」とは日本の歴史に出てくる創造の鳥です。 日本の神様は種々多様です。大陸との交流が無かった時代、想像ですが自然の営みに、感謝をし又脅威を感じ、あらゆる自然の物(山・樹木・動物等)を信仰の対象としていたと思われます。奈良時代の頃大陸との交流が盛んになり、「仏教」並びに中国の神々も伝来してまいりました。それは宇宙に在るもの、自然のなりわいに吉凶を当てはめ信仰するものです。これを日本古来の信仰を含め「自然神」と致しましょう。それから170年程して古事記が出来ました。古事記はご存じの通り、天皇家が神様の子孫であるとこじつけた歴史書です。これを「朝廷の神」とします。 奈良時代の初期は、「自然神」と「朝廷の神」が「日本の神」でした。ところがいつの間にか、「日本の神」と「仏教」とは融合してしまうのでした。それを一般に「神仏習合」と呼んでいます。
「自然神」を祀っている代表が高松塚古墳です。壁画が有名ですが、壁面には人物画と、東西南北を守るとされる想像の動物四神が描かれ、天井に太陽・月・北斗七星等が描かれています。今回は、「自然神」特に「太陽」を取り上げましょう。
太陽・月にも動物にたとえとは太陽の異称は金烏(きんう)、月の異称は、玉兎(ぎょくと)です。金烏は3本足金色の烏(からす)、玉兎は兎の餅つき伝説でおなじみの兎です。朝、夜明けとともに人里に現れ、夕方日暮れとともに山へと去っていくカラスは、古代の人々の目には太陽の使者に映ったのかもしれません。  当然の事ですが、地球が丸く太陽を回り、月が地球を回っているとは世界中誰も知りません。 古事記等に出てくる3本足の烏、これこそが熊野並びに御坊野島に伝わる八咫烏伝説の元なのです。
『古事記』や『日本書紀』には、神武天皇が東征の途上、天から遣わされたヤタガラスの道案内により熊野・吉野の山中を行軍したということが記されています。 地元野島の伝説は、住んでいる人が「八咫烏」と自ら称しており現実的です。 この人達は、石の道具を使って魚や鳥獣を獲って生活していた。ある年、幾日も海が荒れ、海嶋が烈しく続いたある日のこと、浜に沢山の船が打ち上げられ、海上には難破船に取りすかって激狼に揉まれている人達がいた。これを見た「八咫烏」達は救助に全力をあげ、遭難者を介抱したので、皆元気を回復した。この人たちは大変文化が進んでいたので、たちまち八咫烏を従え、野島はみるみる立派な村になった。「八咫烏」はやがてこの人たちが攻め入る大和の国への道案内をつとめた。「八咫烏」が助けたのは神武天皇の一族であったという。この時、族長が死んだが、それを埋めたのが野島小字畑の第13号古墳だそうである。」ここから先は、古事記に記す八咫烏伝説となるが、野島にはもう一つ伝説がある。「水軍の発祥地である。」と云う説が伝わっている。八咫烏伝説と組み合わせれば面白いストーリが描けそうである。瀬戸内水軍の本拠地を「能島」と称するところからも・・・。

(文章 塩屋文化協会 細谷廣延)