川端家の由来

川端家の由来             川端末光 著

四世紀
建部君 景行天皇より出る
六世紀
金刺氏
欽明天皇の宮号拝し紀国日高の郡を預かる。御名代数郡にわたり所々支配せり。
金刺の宮を名負って名代(なしろ)として我が先祖金刺氏紀ノ国日高の郡に坐る。
尚、金刺氏を諸国に使わす。即ち信濃国、駿河国、伊豆ノ国、越中ノ国、紀伊ノ国等に配する。これらの金刺氏を紀の金刺が統括する。
七世紀~八世紀
紀氏を名乗る。郡司を拝し朝臣を賜る。
天武天皇13年家格を示すために新たに真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、稲置(いなぎ)の八姓を定める。このうち  真人、朝臣は天皇家より出る。
七世紀には充の建部君(たけるべのきみ)として藤原京の御所に奉仕し建部門を預かる。 日高郡より時の朝廷に白銀を調するとある。当時我が国で銀の採掘できる所は対馬であり、船を繰り出し交易するはご先祖の得意とするところである。
また、猪の皮を毎年10枚調するとあるが、塩屋の枝郷猪野々(いのの)で養豚をおこなっていたのであろう。もちろん朝鮮より斎した黒豚と思われる。矢傷、刺し傷のない皮、それは養豚である。 時の朝廷で使う塩は日高に決めていた。そのおり荷馬の後よりポコポコと子馬がついて行くのを見て大変な良馬に都の人は目を見張ったとある。諸々も技術者が日高に住んでいたのであろう。 古来より藤原氏に損くじ引かされる。奈良時代、紀の宮子を取られ藤原宮子として宮廷入り、聖武天皇が生まれ、その後藤原は天皇家に女を入れるしきたりとなる。
日本霊異記
光仁天皇の御世の宝亀六年、乙卯の夏の六月十六日に、天俄に強き風吹き、雨降り潮 (みなと)に大水漲いて雑の木を流し出す。紀万呂の朝臣に遣りて流れる木を取らしむ  延暦年事 紀の直吉足(きのあたえよしたり)は紀伊の国日高の郡、別の里塩屋の梯(はし)家長(いえぎみ)の公(きみ)なりき。
十一世紀
石清水八幡宮に長元八年(1035年)ご先祖紀広明田畑百五十町歩を施入  紀伊国  野上庄・三十二町一段 革丙渕園・十三町百八十歩 隅田庄・二十九町  衣奈園・四町六段 園財庄・五十町 出立庄・二十町
十二世紀
後白河天皇、領家職を拝し不祖不入(国司の介入を封ず)  永命(ながのみこと)を名乗る。
十四世紀
南北朝時代 、我が川端氏は南朝に忠誠を尽くし大和十津川、辻堂の津田剣持(けんもつ)を大将に吉川氏、賀名生(あのう)の上田氏、大和五条の崎山氏、同じく今井郷の平井氏、紀州の隅田庄坂部氏ほか三十数騎の兵将、我が川端氏に馳せ参じ戦功ををたてり。
南北朝合体によりそれぞれ引き上げる。その内平井氏、吉川氏、崎山氏は塩屋に残り現在に至る。
十五世紀
室町時代川端氏は、石清水八幡宮の勘合貿易に従事し、朝鮮、東南アジア諸国へ行きおおいに活躍せり。
十六世紀
別領(わけりょう)六ヶ村(六世紀より北塩屋、南塩屋、森、明神川、熊野いや、岩内)と名田村、印南周辺、稲原村、切目を領し各村々代官を置く。
十六世紀湯川氏の進入を被るも軍師に代官崎山氏をおくり川端氏の系図及び古文書などを差し出し皇別を認知せしむ。 而(しか)して程なく豊臣氏紀州征伐を起こす。日高、丸山城堅固で頑強に抵抗す。 豊臣軍困難せり。 日高及び淡路,阿波の軍船百におよぶ和田沖に集結し、丸山城の横腹を突く構えに出る。 さすがの湯川軍も浮く足たち惣崩れ南へ走る。川端軍勝利に帰す。 後、湯川軍壊滅し、豊臣の武将浅野氏紀州へ入る。川端氏領地を差し出し千四百年の幕を閉じる。以後浅野家より水主(かこ:船乗り)二百四十一人預かる。 旧家来 大船頭五人に各十五石、船頭二十四人に各八石、 御水主(おかこ)二百四十一人五石二人扶持 (二人扶持とは米一日一升現物支給なり)

川端氏、御水主役として四十五石(森村)(郡奉行は四十石なり)
十六世紀川端氏 北塩屋村より 加古米十七石   南塩屋村より 加古米十七石
天田村より  帆別二,三人   森村より   加古米一石五斗
園村より   加古米五十石   納屋村より 加古米二十石
和田村より  加古米二十石            慶長以降明治まで
慶長年間に紀州家より日前神社(ひのくまじんじゃ)をお守りせよとの厳命により一族より御崎(みさき)神社宮司川端を遣わす。紀州家より四十石与えられる御崎神社は三位の位にあり、併し日前神宮なる社は伊勢神宮に次ぐ大社なれば身に余る光栄なり。
十九世紀
祖父善三横須賀紀州家蔵屋敷へ御用に参上役を果たし帰途、生麦村に差し掛かりし時、武士の集団に外国人殺される。善三大いに驚き蔵屋敷に報告する。その後、判明せるに薩摩の行列を横切った為、無礼討ちとなる。帰国後も目付役に茶に招待せられるも横須賀の事件聞き取られる。日本中大騒動の生麦事件なればこそである。
われより五代前の善兵衛が江戸より帰りの空船に歌舞伎役者の一座を乗せ、塩屋村に運ぶ。村人に奉仕興行せり、また酒大いに喰らいても七十貫の船の碇担ぎ、砂浜をスタコラと歩いて家に帰ったなどの逸話の持ち主であった。
二十世紀
南塩屋に尾の崎という岬あり。かねてから気になる地名なれば昭和五十年頃尾の崎で七世紀頃の古墳より1メートル20センチあまりの鉄剣出土せり。奈良元興寺(がんこうじ)に出品しているのを見て胸躍る思い。なぜなら日高郡には出雲各地の郷名が多くあり尾の崎からでた剣は祭り事に埋納せると思われる。日ノ御碕をオロチの頭に尾の崎を尻尾に見立て、素戔嗚尊(すさのおのみこと)退治せるオロチの尾からでた天の叢雲(あまのむらくも)にも通じ、後日、鉄剣の所在尋ねるもわからず悲しき事。
我が家のシンボル、ナギの木が日前、国縣(くにかす)両神社に植えている。ある時、若い神官に木の謂われを聞いたが分からないと言う。ナギの大木が熊野速玉神社に、次の大木が印南東光寺にあり、次が塩屋円満寺(元真言宗,大行寺)と塩屋王子神社にある。東光寺と大行寺は旧の別当寺である。ナギの木は数郡の神社に植えている。日高紀氏の謂われの所である。 川端姓の謂われは、物の本に河原と塔にまつわるとある。八世紀、郡寺として紀道成(きのみちなり)が建立せる道成寺は堂塔伽藍(どうとうがらん)紀の国でただ一寺のみ。塔寺の前に日高川の川原あり。それの謂われか苗字辞典に川端,河端、近江の佐々木氏(源氏)紀伊の名族金刺朝臣の末、阿波、美作にも地名おう別流があると書かれている。 我がご先祖の謂われのある所に源氏あり。大和五条、宇野源氏、摂津の源氏、そのうち大和と摂津、西宮周辺支配地、近江は息永氏との縁繋がり、昔天皇家の子に領地を授けるに土地はなし、地方の豪族に面土を見よと押しつけられる。それで辺鄙なところへお預かりするが、それでは辛抱できない。切り取ってやるという事があって武家の起こりとなる。塩屋は古来より江戸時代宝暦年間まで洗骨葬で真言宗でした。徳川家の政策で強制的に宗派替えを強いられた。日高郡の真言宗はほとんど壊滅せり。