五体王子

五体王子 『芝口常楠氏 昭和36年3月3日発行「葵羊園叢考」より』

五体王子と称することについて、続風土記には、神の御像五ッあるを以ていう、或は地神五代なるを以て五代王子という。代体音近きを以て転ずなりと云う。熟れか是なる事を知らず。とあるが統風土記の編著者としては可なりまずいのではなかろうか。尤も祭祀の神像は五体で熊野三山にて子守宮(葺不合尊)、児宮(彦火火出見尊)、聖宮(ににぎの尊)、禅師宮(天忍穂耳尊)の十二社の内四社と若宮(天照大神)に祭られている神である。又これを五所王子ともいうが五ケ所に祀られているという訳でもない。続風土記の五体は五代の転化と考えていることは当らない、これについての考察と若王子又は若一王子と称する意味を、少しく述べて見ることにする。
熊野王子のことについては宮地直一博士が熊野王子考と題して発表されており、日高郡誌にも転載されているから、ここにこれを述べる要もない。王子というのは仏教上の言葉で、眷属とか随従とかの意味を有しているとのこと。熊野に於ては天照大神を祭っていることになっているのは、熊野三山ではいざなき、いざなみ二尊が中心の神であるから、その御子を若宮として奉祀したことであろうと思う。沿道の諸王子も亦多くこの分霊を勧請したので若宮王子とか略して若王子、天照大神御一人の場合は若一王子、或は若女一王子ともしている。今これらの神を熊野三山において如何に奉祀しているか、主なる記録をたどってみよう。
1中右記(天仁元年)  2御幸記(建仁元年)
3紀州志略(元禄初年) 4熊野道中記(宝永頃)
5南紀神社録(延享三年)6熊野見聞記(明和四年)
7熊野紀行(寛政十年) 8紀伊続風土記 (天保十年)
9熊野三山とその信仰(昭和十七年)
10紀伊名所図会後編(昭和十七年)11紀南道嚢(寛政九年)
に照せば、本宮においては
1若宮王子御前 2若宮殿 3若一王子社
4第四殿天照大神。国常立尊相殿 5若一王子天照大神
6五所王子・若王子・禅師宮・聖宮・児宮・子守宮
7若宮第一王子天照大神 8第三殿若宮国立尊
9第四殿天照皇大神 10若宮天照大神・国常立尊相殿
としている。新宮においては
1若宮一王子 3若一王子 4第四若一王子天照大神
5若一王子天照大神・国常立尊 6若一王子天照大神
8第四殿若宮天照大神 9第四殿天照皇大神 10若宮天照大神
11第四殿若宮殿天照大神
それから那智に於ては
1若宮王子 3若一王子八所宮 4挿図に若女とあり
5若宮若一王子天照大神 7第五若一王子天照大神
8第一殿若一女王子天照大神 9第五殿天照皇大神
10若女一王子天照大神
とある。⑨の『熊野三山とその信仰』は昭和十七年那智神社社務所の発行にかかるもので、特に天照皇大神と書せるは御時世のしからしむる所であろう。
猶奉幣の様子を書いているのをみると、本宮において①五所王子幣五捧残四王子一所②同じく
本宮において御幣五④本宮にて第四殿より第八殿まで以上五所とあり、大治二年鳥羽上皇熊野御
参詣熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記に。
大治二年十一月四日御精進、九日御進発二十三日五部大乗経供養
三重塔供養、御供楽人五所王子舞楽有り、藤代王子、切目王子、
稲荷王子(稲葉根王子)、滝尻王子・発心門王子
この文によると五所王子とは五ヵ所の王子のように思われるが、右の内稲葉根王子は御幸記記載の如く「五体王子に準じ毎年過差」とあり真の五体王子ではないことによって、五ヵ所の王子の意味とはならない。それから続風土記所載「昔時神宝目録」と題し、熊野山新宮造替遷座御神宝調進目安書という中に、「五体王子切床三帖長十間」と書す。これは明徳元年十一月のものであるが、「右は元亨元年社家注進の状に任せ記せしむる也。」とある。茲に五体王子とあることは注意すべきである。南紀神社録に切目王子を五所王子と記している。五体王子というも五所王子とするも結局は同一の意味に落付くのである。