天田28号古墳 発掘調査書 

天田28号古墳発掘調査書 御坊市教育委員会 昭和59年3月31日

調査地 御坊市塩屋町北塩屋719-1
期 間 昭和59年5月24日~11月6日

1.位 置
天田古城群は日高川の河口南岸に張り出す丘陵上に5世紀末頃から6世紀末にかけて造営された古墳群である。前方後円墳1基・円墳27墳の総数28基をかぞえ、日高群内でも有数の古墳群であったが、 宅地等の開発でそのほとんどは破域され、 現在わずか5基が残存しているのみである。今回発掘調査を実施した28号墳は、 古墳群南端を東西に走る丘陵とこの山塊から北へ細長くのびる丘陵上とに狭まれた谷あいに小さく張り出した半独立陵上、標高28mを測る頂の西斜面よりに當なまれており、古城群のほぼ中央、 日高湾が一望できる地に位置している。

2. 墳 丘
全長約30m,で、 墳丘の主軸方位はS-51°-Wを測り、 前方部を西北西(海岸)に向けて造営されている。後円部は土取りによって、 北東部が損なわれ、墳丘は削平されているが直径19m現存高1.75mを測る。また後円部に取り付く幅拡がりの前方部は長さ11m、幅は前方部端で最大幅約20.00 m、後円部側で12.70m、高さは2.50 mを測り、右干のたかまりが認められる。 墳丘は整地した地山へ、 粘土と様からなる地山土と淡茶掲色土を交互に重ね固めて築かれている。 地山直上で炭が混じる層が調査トレンチのほぼ全域に、特に前方部西端、 後円部南側では焼土層が認められた。 墳丘の築造は層位関係を見る限り、 まず後円部が堅穴式石室を構築しながら、ちょうど石室側壁の上限地山面より1.00mの高さまで盛土を行ない、次に前方部を造成している。 しかし、両者の関係は後円部が削平されているので堅穴式石室に被葬者埋葬を行ない、後円部の盛土を完了して、続いて、前方部を築造したのか、 被葬者を埋蔵する以前に前方部の築造をおえ、 被葬者を理葬し、 後円部に再度盛土したか明らかでない。 ただ後円部と前方部との境の土層をみるにおいて、後円部と前方部の築造はそれほど時間をおかずしてなされたと思われる。また、墳丘の外部施設としては葺石は認められなかったが、埴輪が樹てられていた。

4. 出土通物
石室内に副葬されていた造物としては、管玉1点、鉄器鋤先2点、ノミ1点、布が付着した鎌1点、斧1点、矛1点、鋤約40点、馬具尾錠2点、轡輪片2点、留金具25点、砥石1点、須恵器坏身蓋3点のほか坏蓋 ・高坏 ・壷片が出土した。鋤先(2)、矛(7)、馬具尾錠・留金具の一一括(17~46)、鉄鏃、鉄斧の一群(4・8~l6)、須恵器坏身・(49・50)はほiまその原位置を保つものと考えられ、このうち須恵器坏身・蓋(49・50)は柏内に納められていた副葬品である。 また、墳丘からは埴輪・須恵器坏・壺が出土している。埴輪のほとんどは円筒埴輪(65~67、 69~72)で、形象埴輪としては人物の胴部・頭部島田かみ(56・57)、盾(58・59・61)、家(60)の破片があり、石室埋土中より発見された棒状製品(62・63)は家形地輪の千木と思われる。この他、朝顔形円筒埴輪(68)がある。出土.した埴輪には有田川以北の緑泥片岩が含まれるものがあり、紀北でっくられ搬入されたものである。墳丘盛土より緑泥片岩製の偏平両刃石斧(77)、石斧(76)、砂岩製の円状石器(73)、サヌカイト製の石鏃(74)、石錐(75)、砂岩製の凹石(78)、弥生式土器片が出土している。

5. ま とめ
イ) 本古墳は出土した須恵器坏、円筒埴輪に認められる底部整形から6世紀前半代でも後葉に築造されたと考えられる。
ロ) 本古墳は、28基からなる天田古墳群中、 確認されている唯一の前方後円墳で、群内の中央を占めて造営されており、盗掘を受けたにもかかわらず内容豊かな副葬品がみられることから被葬者はこの 地に基域をさだめ、天田古墳群を造営した集団の長と考えられる。
ハ) 天田古墳群からは過去の開発によって、轡、掛けの小札が、また今回発掘調査を実施した28号墳からも馬具(尾錠・留金具・轡片)、鉄矛などが出土し、日高群内に所在する他の古墳群とは副葬品に際立った異いを有し、その内容から察するに軍事的色彩の強い集団であったこと窺われる。その当時、大和政権下で軍事面で活躍し、その見返りとして28号墳の被葬者は相当な地位・職を獲得し、前方後円城を造営したと考えられる。(天田28号古墳発掘調査書 御坊市教育委員会 昭和59年3月31日)