歌会 塩屋王子神社にて

御所の芝  歌

歌会

『新古今和歌集』『千載集』より -歌会 塩屋王子神社にて-
熊野詣では10世紀初旬に始まり、11世紀に最盛期を迎え、その期間は250年も続いた。13世紀後半になると皇族の熊野詣では減っていき、徐々に衰退していった。天皇の熊野御幸の尤もはっきりしているものは宇多上皇の延喜七年(907)に初まり、次は花山法皇は二度、次は白河法皇の寛治四年(1090)正月を初度として九度に及んでいる。後鳥羽上皇の建仁元年(1202)の御幸より百二十年前となる。
塩屋王子に尤も崇敬の誠を捧げていられる記録をたどると、寛治四年(1090)正月白河上皇の熊野御幸に際しての事で、王子の御前に参拝した多くの人達の歌に表れている。
塩屋王子前碑の仁井田好古の撰文に『それで昔(平安時代)帝が熊野に行幸する時には必ず休憩所になっていた。白河法皇の行幸の時、お供の公卿(くげ)たちに命じて神前に歌会を開かせている。また 建仁元年(1201)後鳥羽帝行幸の時の記録「御幸記」(藤原定家筆)に「ここもまた景色の優れた所だ」と書かれているのはここを指しているのである。それ以後 弘安4年(1281)に至るまで数人の帝が行幸している。』とある。

◎ 新古今和歌集より   (巻第十九 雑歌中 1909番)

白河院野に詣で給えけるに御供して、塩屋の王子にて歌よみ侍けるに

立ち登る 塩屋の煙 浦かぜに  なびくを神の 心ともがな

訳:立ちのぼる塩屋の煙が浦を吹く風になびいている。そのように私の願いが納受され  るのが神の御心であったらよいのに。

徳大寺左大臣 『藤原実能(さねよし)』 1096-1157
平安時代後期の公卿。永長元年生まれ。父は藤原公実(きんざね)母は藤原隆方の娘光子。徳大寺家の始祖。摂関家の藤原頼長(よりなが)を娘婿にするなどして内大臣となるが、保元の乱では頼長に敵対して後白河天皇方につき,乱後,左大臣にのぼる。
従一位。京都衣笠(きぬがさ)に徳大寺をたて,これが家名となる。
保元2年9月2日死去。62歳。日記に「実能記」。

『新古今和歌集』鎌倉時代の初めに、後鳥羽上皇の下命により編纂された勅撰第八歌集である。。『古今集』を範として七代集を集大成する目的で編まれ、新興文学である連歌・今様に侵蝕されつつあった短歌の世界を典雅な空間に復帰させようとした歌集。古今以来の伝統を引き継ぎ、かつ独自の美世界を現出した。
「万葉」「古今」と並んで三大歌風の一である「新古今調」を作り、和歌のみならず後世の連歌・俳諧・謡曲に大きな影響を残した。
◎ 千載集叉曽詞花集 より

白河法皇熊野へまいらせ給ひける御供にて、塩屋の王子の御前にて人々歌よみ侍りけるに

思うふ事 汲みてかなふる 神なれば  塩屋に跡を 足るゝなりけり

思っていることを汲んで叶えてくれる神であるから、塩屋に垂迹するのであったよ。
「垂る」は「垂迹(すいじゃく)する」の意。仏が仮に神として姿を表わすこと。

後二條内大臣 藤原師通ふじわらのもろみち(1062~1099) 平安末期の廷臣。師実の子。関白。通称,後二条殿。永保3 (1083) 年内大臣,寛治8(1094) 年父の跡を継いで関白,氏長者となった。白河院政と対立,延暦寺の僧兵を武力で制圧するなど政治の粛清に努めた。日記「後二条師通記」
『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)とは、平安時代末に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に撰集され、勅撰和歌集の第七番目に当たる。略称『千載集』(せんざいしゅう)。文治4年(1188年)4月22日、『千載和歌集』は完成し後白河院の奏覧に供された。

◎ 白河上皇の熊野御幸
熊野が広くその名を知られるようになるのは、上皇による熊野御幸が行われるようになってからである。熊野を初めて詣でた上皇は宇多法皇で、907年のこと。それから80年ほど間をおいて、今度は花山法皇が992年に詣でている。
花山上皇のときから約百年後、1090年、白河上皇(1034~1129)が熊野を詣でる。この白河上皇がじつに9回もの熊野御幸を行っている。白河上皇の度重なる熊野御幸が、熊野信仰が熱狂的な高まりを見せるきっかけとなった。
この白河上皇の9回に及ぶ熊野御幸が、のちの鳥羽上皇の23回、後白河上皇の33回、後鳥羽上皇の29回という熊野御幸を生み、さらに武士や庶民による「蟻の熊野詣」を生み出していった。
天皇は様々なしきたりに規制され、多忙を極め、自由な行動などできなかった。しかし、上皇になるとら、天皇の父親としての権力や財力を持ちながら、自由を享受することができた。白河上皇は意のままに政治を行うことができたろう。それゆえ、熊野「御幸」も可能だったので、自由な行動を許された上皇だからこそ、熊野を参詣することができたのだろう。記録によれば、白河天皇の天永元年(1110)9月の御幸には総人数814人、1日の食糧16石、2斗8升、傳馬185匹だったと「中右記」に記している。塩屋王子ではこれだけの人たちをもてなすのに大変だったと察する。

◎ 熊野信仰について
著:文学博士 和田英松 より
白河上皇、先づ最初の御幸は、御譲位後四年に当る寛治四年である。其の年の正月十六日から熊野詣の御精進を始められることになって、同日鳥羽の御精進所に御幸があった。此の精進ということは、熊野詣をする者には必須の条件で、金峯山参りの場合と同様、帝王たると臣下たるを論ぜす、之を行ったものである。御精進が済むと、次いで二十二日の御出門、殿上人十一人、僧綱、(これは先達である)三人之に扈従して御参詣あったが、翌二月の十日に還御あった。熊野三山の検校職が始めて補せられたのはこの時で、従来は単に別当のみであったのを、白河法皇が特に其の上に検校職を置かせられて、同時に紀伊国ニケ郡の内で、田畠五箇所合せて百餘町を寄進せられたのである。此の時を第一回として、其の後第二回が永久四年十月、第三回目が翌永久五年十月である。
其の時には御願塔の供養があり、第四回目は元永元年九月で一切経供養があり、第五回目は元永二年十月で大般若経供養、第六回目は保安元年十月で金泥の五部大乗経の供養があった。又第七回目は天治二年十一月で一尺七寸の七宝塔供養並に法華経薬師経の供養が行われた。第八回は大治元年十一月で五部大乗経、三重塔供養を行われた。第九回目は同二年二月で御奉幣の後、金泥の大般若経を供養せしめられた外、七宝の御塔金銀の小塔、並に二宇の御堂をも供養せられた。斯ういう風に度々御参詣あらせられ、其の度毎に、或は経巻、或は堂塔等の供養が行われている所を見ると、白河法皇がいかに御信仰あつくいらせられたかゞ拝察せられるのである。さりながらこゝで聊か注意を要するのは、第一回御幸が前にも述べた通り寛治四年(紀元一七五〇)であるのに対して、第二回は永久四年(一一一六)で、其間に二十五年中絶をしている。三、四、五、六回と引続いて毎年御幸あったが六回と七回との間で又四年中絶している。斯う云う事実は後には餘りないことであり、月で云うと、或は正月、二月、九月、十月、十一月と云うように、或るべく時候の好いときを選ぱれたようである。そうして崩御の前年御七十六歳を最後として、後には殆ど連年御幸があったのに、此の如く第一回第二回の間で二十五年中絶し、六、七回の間で四年間中絶しているのは如何にも不思議である。
そこでこれはどう云う理由に因ったものかと色々取調べて見たが更に明証がない。随って今は唯想像に愬へる外に方法がないのであるが、それについて第一に思い当るのが前にも述べた熊野三山検校職を白河法皇が御創置あらせられたと云う一件である。

◎ 白河天皇 (しらかわてんのう)(1053)~(1129)
第72代の天皇 (在位 1072~86) 。名は貞仁。後三条天皇 の第1皇子,母は中納言藤原公成の娘,贈皇太后藤原茂子。 延久4 (1072) 年4月受禅即位。当時摂関家の勢力減退に 乗じて実権を伸ばし,応徳3 (1086) 年第3皇子善仁親王 (堀河天皇) に譲位したが,その後も上皇として政務をとり, いわゆる院政を開始した。
◯ 歌枕名寄
こととはむ 塩屋の里に 住むあまも 我がごとからき 物や思ふと
中務卿親王宗尊
宗尊親王(むねたかしんのう、1242~1274)。 後嵯峨天皇の第2皇子。
家集 に『文応三百首(中務卿親王三百首和歌)』『柳葉和歌集』『瓊玉(けいぎょく) 和歌集』『中 書王御詠』『竹風和歌抄』がある。

◯ 夫木抄(夫木和歌抄) ふぼくしょう. 作成年月日, (延慶三年頃)(1310年頃).
 沖つ風 塩屋の浦に 吹くからに のぼりもやらぬ 夕煙かな
第三のみこ
夫木抄:鎌倉後期の私撰和歌集。36巻。藤原長清撰。万葉集以後の家集・私撰集・ 歌合わせ  などの撰から漏れた歌17000余首を、四季・雑に部立てし、約600の題に分 類したもの。

◯ 草根集
さしのぼる 日高の河も 解けやらで 氷を砕く 紀路の旅人
 たのめても いまだ日高の河浪に 夕暮れいそぐ 春の雲霧
正徹
正徹(しょうてつ、永徳元年(1381年) – 長禄3年5月9日(1459年6月9日))  室町時代中期の臨済宗の歌僧。道号(字)は清巌(岩)で、法諱は正徹。

◯ としなみ草
うしや今 塩屋ときくも 所からき  旅立ちに行き やむ身は
似雲
似雲(じうん1673~1753))江戸時代中期の浄土真宗の僧・歌人。俗姓は河村氏。 通称は金屋吉右衛門。安芸国の出身。改めている。翌1710年(宝永7年)上洛して、 歌道を公家の武者小路実陰に学び、実陰の歌論を書き取って『詞林拾集』と著して  いる。歌集に『としなみ草』がある

◯ 万葉集
 吾が欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 玉ぞ拾はぬ
中皇命 (なかつすめらみこと 生没年未詳)
私が見たいと願っていた野島は見せていただきました。けれど深い阿胡根の浦の底に あるという真珠はまだ拾っていません。野島は現名田町野島。阿胡根は不明。

◯正治二年十二月三日後鳥羽上皇三度目の熊野御幸の時、切目宿にて海辺眺望 題下に詠める
漁り火の 光にかはる 煙かな 灘の塩屋の 夕ぐれの空
作者不詳