道成寺

『道成寺の発掘調査 道成寺そのなりたち』

紀氏の権勢、文武天皇と宮子夫人の聖武誕生、内裏に供奉する義淵法師、こうした三者の絡み合いの中で道成寺が成立するとしても、なお紀伊国日高那矢田郷にこうした寺院が建立される理由は説きえていない。こうした面を明瞭にするのは、大宝元年(701)十月の紀伊国行幸であろう。「続日本紀,には「天皇幸紀伊国冬十月丁未、車駕至武漏温泉、戊申従官并国郡司等階并賜衣衾…-」と記されている。この行幸は早くから計画され、八月には行宮、御船三八雙が準備されている。恐らく、この間、三月に大納言となった紀朝臣麻呂の身辺は、極めて朝廷と親密な動きをもったものと推察されるのである。懐妊・誕生・成長といった流れをもつ皇子聖武と、それを見護る文武帝・宮子夫人・義淵の間を巧みに見究めた上、この紀伊国行幸、武漏湯入湯の課程で、紀朝臣麻呂は文武天皇の勅を得、懐妊誕生の不安と安堵の彩りをもつ宮子・天人の御願を容れ、その身辺を護持する義淵を開基に迎える、といつた道成寺創建の経総が復原されてくるのである。
こうした経緯からするならば、「道成寺の創建は必然的に大宝元年(七〇1)に求められることとなるであろう。」寺伝.として語られる内容は、極めて真実に近いものとして理解されるのである。ところでこうした所伝とは異なる別伝が見られる。慶雲年間の道成寺創建を説くものである。慶雲二年(七〇五)には大納言紀朝臣麻呂の薨、藤原不比等の病臥、慶雲四年(七〇七)には文武天皇の崩御を見ている。大宝元年創建説に登場した主要な人々の死去・病臥に係る歳月として慶雲年間を意味づけることが出来るのである。大宝元年に創建の動を得て創始された道成寺の建立が、その創建を彩った人々の病や死の影の中で平癒への析りをもって一層の造寺の進抄がはかられる。そうした動向を語るものとして慶雲年間草創説が登場してくるのではないかと考えられるのである。

(仏教芸術142号 水野正好氏)