宮子姫物語

『髪長姫伝説』と『竹取物語』。ふたつの『宮子姫物語』
『髪長姫伝説』について 誰もが疑問に思うことがあります。それは
・行動範囲の狭いツバメが髪の毛をくわえて明日香まで運ぶことができただろうか。
・髪の毛だけで『宮子』が確定できたのか。
・身分制度が最も厳しい時代に漁師の娘が皇室に入り皇后にまでなれるだろうか。
・当時は皇族以外には、名前に『宮』という字を使うことができなかった。
・藤原不比等は養女の宮子を『藤原宮子』として宮中に入れたが、何故『紀宮子』を歴史から消してしまったのか。
以上を解明するため、もうひとつの『宮子姫物語』の『竹取物語』に焦点を当て真実に迫っていきます。まず、「何故『竹取物語』がもうひとつの『宮子姫伝説』である」と言えるのかを説明から入ります。
① かぐや姫のモデルは?
『竹取物語』に「隠語」が散見できると気づいたのが、江戸時代の国学者・加納諸平(かのうもろひら)である。『竹取物語』の中でかぐや姫に求婚する貴公子たちは、古代の官僚名簿『公卿補任』の文武五年(701)の条に登場する高官たちの顔ぶれとそっくりだと指摘したのである。
それぞれの登場人物と『公卿補任』の名簿の名を比較すると、次のようになる。
(1)石つくり(作)の御子(みこ)‥‥ 左大臣・多治比嶋(たじひのしま)
(2)右大臣あべのみむらじ‥‥ 右大臣・阿倍御主人(あべのみうし)
(3)大納言・大伴のみゆき‥‥大納言・大伴御行(おおとものみゆき)
(4)中納言・いそのかみまろたり(石上麻呂足):‥‥大納石 石上麻呂(いそのかみまろ)
(5)くらもちの皇子‥‥大納言 藤原不比等
以上から『竹取物語』の主人公は竹取翁 さぬきのみやつこまろ‥紀朝臣麻呂 かぐや姫‥紀宮子 と推定することができる。
②『竹取物語』の作者は? 主人公はだれか?
現在、『竹取物語』の作者は紀貫之を支持する歴史学者が多い。系図によると紀貫之は「紀朝臣麻呂=道成」の弟「船守」の直系八代目にあたる。作者の紀貫之は、藤原不比等の母親は車持(くるまもち)氏だから、『不比等』を『くらもちの皇子』に。『紀朝臣麻呂』を『さぬきのみやつこまろ』に、『宮子』を『かぐや姫』に置きかえ藤原不比等の陰謀を『竹取物語』で解いていったのである。
大宝元年(701)正冠正三位の石上朝臣麻呂と藤原朝臣不比等、正冠従三位の紀朝臣麻呂がともに大納言に任じられる。(続紀3.21)当時、そのなかでも藤原不比等は絶大な権力を握っていたが、家柄・血縁を重んじる皇室には入ることができなかったため、紀宮子を藤原の養女に迎え文武天皇と結婚させた。生まれた子どもが聖武天皇である。それ以降、后は藤原から宮中へ入る習わしが続く。
宮子が宮中に入るまで不比等には朝臣の姓がなかったことを考えれば、紀朝臣麻呂の身内の紀朝臣宮子が利用し、文武天皇と結ばれたのを期に、晴れて藤原朝臣不比等となれたのは年表を見れば明白である。天武13年、八色の姓を定める。八色の姓とは「真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、稲置で、そのうち真人、朝臣は天皇家からでる」宮子と麻呂の関係であるが、『さぬきのみやつこまろ=紀麻呂』は『竹取物語』では『竹取の翁』として
登場しているが『麻呂』と『宮子』との年齢差は19歳、宮子は紀朝臣麻呂(道成)の娘ではないだろうか

※当時、郡司の家から女官を取るしきたりがあった。郡司には、大領,少領、主政、主帳と4家があり、この中で天皇家でお后で迎えてくれるのは、大領と少領だけで天皇家とつながりのある家系でないと皇后になれなかった。

それぞれの思惑
『日本書紀』は最古の正史として知られている。天武十年(681)に、天武天皇の命によって編纂が始まった『日本書紀』は天武天皇の崩御(朱鳥元年686)の後、三十六年後の養老四年(720)に完成している。不比等の父・中臣鎌足が壬申の乱の直前、大友皇子の即位を願っていたことで、不比等本人も、天武朝では、まったく日の目を見ていない。その不比等が強大な権力を握った段階で 『日本書紀』 が完成している。
正確に言えば『日本書紀』は藤原不比等全盛期政権下で、不比等の息のかかった不比等にとって都合の良い歴史書である。父親・鎌足を礼賛する一方で、出自を明らかにできなかったのは「隠したい過去」「公にできない過去」という問題が多々あったからだろう。
その最も隠したいなかの一つには紀氏から藤原へ養女に入った『宮子姫』であったのだろう。
そしてその百数十年後、『竹取物語』で事実を暴いたのが紀氏の子孫、紀貫之であったとしたら‥。 それぞれの思惑が複雑に交差していて謎めいているるのである。
◯ 日本古代氏族人名辞典 より紀朝臣麻呂 (紀道成)659~705
大人(うし)の子。持統7年(693)6月直広肆を授けられ大宝元年(701)令制官名位号の採用により大納言に任ぜられた。慶雲2年(705)官員令大納言の定員設定で4人から2人に減じた折も不比等とこの任にあったが、同年7月19日薨(こう)じた。このとき文武天皇が深く悼惜(とうせき)し特に争議を賜り、宣命を下した。8~9世紀に中、上級官人として活躍する紀氏一族の多くは麻呂から出ている。「懐風藻(かいふうそう)」(我が国最古の漢詩集。「懐風」とは「古い詠風を懐かしむ」という意味。「藻」は美しい詩文のこと。撰者未詳。天平勝宝三年(751)成立。に五言詩、「春日応詣」に一首載せている。◯ 水野正好氏「道成寺の発掘委調査」『佛教藝術』第一四二号より

紀道成   (紀朝臣麻呂)
「続日本紀」には大宝元年三月「大納言正従二位阿部朝臣ご主人を右大臣、中納言であった正正三位石上朝臣麻呂、藤原不比等、正従三位紀朝臣麻呂を大納言とする」ことが記されている。朝廷の枢要を占める顕職に紀朝臣麻呂が就いているのである。慶雲二年(705)の麻呂の死去にあたっては、特に「帝深悼惜、特賜葬儀、遺中納言正四位下高向朝臣麻呂宣命」といった哀惜の念深い重臣であったことが記されているのである。寺伝にいう紀大臣道成はおそらくこの紀朝臣麻呂を指すと考えてよいだろう。

◯ 日本霊異記より

紀朝臣麻呂
「光仁天皇の御世の宝亀六年、乙卯の夏の六月十六日に、天俄に強き風吹き、雨降り潮(みなと)に大水漲いて雑の木を流し出す。紀万呂の朝臣に遣りて流れる木を取らしむ」
「紀の麻呂の朝臣は、日高の郡の潮に住まいし‥」暦年事紀の直吉足(きのあたえよしたり)は紀伊の国日高の郡、別の里(わけのさと)、塩屋の家長(いえぎみ)の公(きみ)なりき。
◯ 日本古代氏族人名辞典 より

藤原朝臣不比等 659~720
鎌足の次子。母は車持君与志古娘(くるまもちのきみよしこのいらつめ)。十一歳で父と死別。壬申の乱では僅か十四歳で局外対立。 以後、生前の鎌足を徳とした天武天皇に庇護され、天武九年(680)天智朝の大臣蘇我連子(むらじこ)の間に長男武智麻呂を、次いで次男房前(ふささき)、三男宇合(うまかい)をのちの天武天皇の未亡人である異母妹五百重娘(いおえのいらつめ)との間に四男麻呂をもうけた。

文      郷土の歴史と文化を学ぶ会      溝口善久


かみなが姫悲話 (郷土の歴史と文化を学ぶ会 細谷廣延)

道成寺には、その草創の縁起を語る「かみなが姫(宮子姫)伝説」があります。日本書紀に出てくる「神功皇后の三韓征伐」で、皇后が都への帰途、日高の地に9人の家来を残していきました。家来たちは、海人(あま)(漁業)を生業とするようになったので、この地は「九海人の里」と呼ばれるようになりました。
さて、奈良時代、この村の村長(むらおさ)、早鷹と渚の夫婦には、40歳を過ぎて授かった「宮」という名前の一人の女の子がいました。ところが、この女の子には生まれたときから髪の毛が生えていませんでした。
そんな時、海中に光るものがあって、漁師たちは魚が全くとれず、困っていました。渚は、命懸けで海に潜り、その正体を探ろうとしました。そして、渚が海の中から引き上げたのは、小さな黄金の仏像でした。夫婦は小さな祠を作ってその仏像をお祀りし、信心していました。
すると、渚の夢に観音様が現れて「ひとつ望みをかなえてあげましょう」と言うので、渚は、宮の髪が生えてくるよう祈りました。渚の祈りは通じ、宮の髪が生えてきました。そして、年頃になる頃には、誰よりも長く美しい髪の毛になり、「髪長姫」と呼ばれるまでになりました。
奈良の都では、藤原不比等が絶大な勢力を持っていました。ある時不比等は屋敷の軒にかけられた燕の巣から、一本の長い髪がユラユラと垂れ下がっているのを見つけました。「この髪の持ち主を捜し出せ」不比等は諸国を訪ねさせました。当時、黒くて長い髪は美人の証だったからです。不比等は宮を養女にして「宮子」と名付け、文武天皇のおそば近くに差し上げました。
宮子は、文武天皇の寵愛を受け、天皇の子供を出産しました。この子は、後に即位し、聖武天皇となりました。
姫は黒髪を授けてくれた観音様と両親を粗末な所に残してきた事を悩んでいました。文武天皇は宮子姫がご恩返しをするための寺を建てることを命じ、大宝元年(701)道成寺が建てられました。
その勅を奉じて、伽藍建立に力を注いだのが、紀伊の国司・紀道成(きのみちなり)でした。ところが、道成は自ら材木の切り出しを指揮して帰る途中、いかだの事故で、死んでしまいました。完成した寺は、この道成の功績を讃えて「道成寺」と名付けられました。これが「かみなが姫(宮子姫)伝説」のあらすじである。
この伝説の中に腑に落ちない内容が多々見受けられる。列記すると、
① ツバメが、髪の毛をくわえて都まで飛んでいかない。日本に居る間はせいぜい        ねぐらを中心として数キロの範囲である。
② 生れながらにして髪の毛が一本もないと云うことは、先天性脱毛症ではないか
先天性脱毛症だとすると、現代医学でも治療が困難である。
③ 「道成寺」は、文武天皇が勅を発し建立したと謂われるが、中央の史書には記        されていない。登場する人物、宮子、文武天皇、不比等は、官位の高い実在人        物である為その人たちの大きな行いは、当然史実として残るはずである。

①のツバメについて推論したい、ツバメとは空飛ぶツバメではなく、「燕人(えんひと)」ではないか、[燕]とは(中国の)戦国時代の七雄(秦・楚・斉・韓・魏・趙・燕)の一国である。秦の統一によって燕は滅びたが、国人気質を受け継いだ部族が、日本に渡来している。和珥(わに)氏である。和珥氏は5~6世紀の最有力豪族の一つであり、雄略・継体・仁賢らの大王に妃を輩出した。ところが彼らは奇妙にも、その後とつぜんに歴史から消えている。和珥氏が日高に居たとは史実にないが推論であるため、ご辛抱願います。この和珥氏より出たのが、中臣氏で後藤原氏となり、鎌足の子不比等が現れるのである。又和珥氏は海洋民族で海人族である。従ってかみなが姫は、「燕人(えんひと)」の長の娘で、同族の藤原不比等に、天皇の嬪(ひん)として推挙したのではないかと思われる。なお当時日高には紀氏が勢力を持っていたのは確かであるが、全頭型円形脱毛症は紀氏の姫ではなさそうである。かみなが姫と時を同じくして、紀竈門娘(きのかまどのいらつめ)  と石川刀子娘(いしかわのとねのいらつめ)   の二人が嬪(ひん)(皇室の女性の位、皇后・妃・夫人・嬪とつづく)になっている。即ち紀氏から入内しているのである。
②の生れながらにして髪の毛が一本もないと云うことは、先天性脱毛症ではないか先天性脱毛症だとすると、現代医学でも治療が困難である。他に毛が全部抜けてしまう、全頭型円形脱毛症
があるが、これは今まではえていたのが、突然抜けるのでかみなが姫の症状とは異質のものである。伝説の隠れた真実、姫は、生れながらにして、治ることのない坊主頭であった。
ではかみなが姫と称されたか、この頃伊勢神宮と(上下)賀茂神社には皇室出身の女性が「斎(いつき)」(神に仕える人)として奉じていた。伊勢は斎宮、賀茂は斎王と呼ばれていた。
神に仕える斎宮達は、は穢れを避け、また仏教も禁忌とするため、それらに関連する言葉が忌み詞(ことば)として禁じられた。『延喜式』の巻第5(斎宮式)の忌詞条に次のとおり記されている。

仏を  「中子(なかご)」
経を  「染紙(そめがみ)」
塔を  「阿良良伎(あららぎ)」
寺を  「瓦葺(かわらふき)」
僧を  「髪長(かみなが)」
尼を  「女(め)髪長」
斎(いもい)(仏僧の食事)を「片膳(かたじき)」
死を  「奈保留(なほる。治る)」
病を  「夜須美(やすみ。休み)」
哭(なく)を  「塩垂(しおたれ)」
血を  「阿世(あせ。汗)」と称し、
打(うつ)を  「撫(な)づ」
宍(しし)(肉)を「菌(くさひら。野菜や茸)」
墓を  「壌(つちくれ)」
堂を  「香燃(こりたき)」
優婆塞を「角筈(つのはず)」

ここで注目するのが、僧と尼の忌み詞(ことば)「髪長(かみなが)」である。近世まで僧と尼は剃髪しいわゆる坊主頭である。そしてつけたあざなが「かみなが姫」。
姫の醜さの為か、文武天皇は即位と同時に姫と結婚していますが子供(首(おびと)皇のちの聖武天皇子)が生まれたのは4年後、本当の夫婦関係が暫くは無かったのかもしれません。当時の結婚は、通い婚であった為、姫は入内後ずっと荒れ寺に住まわされ、天皇を待ち続けたのです、出産後も、天皇とも逢うこともなく、「久しく幽憂に沈み」とありこれが37年間続いたという、今で言う心身症か、その内文武天皇は首皇子が生まれて6年後に崩御しています。
姫が正常に戻ったのは、737(天平9)年12.27、皇后宮で玄昉(げんぼう)の看病を受け、正常な精神状態に戻り、偶然行幸した聖武天皇に初めて相まみえる、聖武天皇はこの時まで生母の顔を見たことがなかったという。  玄昉は遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ秀才僧であり、聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人格に対して人々の批判も強く、失敗したものの740年(天平12年)には藤原広嗣が玄昉を排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。翌741年(天平13年)千手経1000巻を書写供養している。しかし、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、745年(天平17年)筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収され、翌746年(天平18年)任地で没した。又『元亨釈書』には、「藤室と通ず」(藤原氏の妻と関係を持った)とあり、これは藤原宮子のことと思われる。姫との密通の話は『興福寺流記』『七大寺年表』『扶桑略記』などにもみえる。玄昉の弟子、善珠(ぜんしゅ)は、玄昉と姫との子とする史書もあるが、善珠の生まれた723年当時玄昉は遣唐使として唐に滞在している最中である。大和国の出身。秋篠寺の開基とされている。   玄昉と姫との密通の話が本当だとしたら、姫のかかった病気ははたして何だったのか。
③の「道成寺」建立の謂われであるが、中央の史書(続日本紀等)には記されていない。当初は、今の伽藍規模ではなかっただろうが、創建は奈良時代である。(1978年以降、数次にわたって発掘調査が行われ、奈良時代の金堂、塔、中門、講堂、回廊の跡が検出された。中門の左右から伸びる回廊は敷地を長方形に囲み、講堂の左右に達していた。回廊で囲まれた伽藍中心部には、東に塔、西に金堂が位置していた。現存する仁王門、三重塔、本堂はそれぞれ、奈良時代の中門、塔、講堂の跡に建てられている。なお、このような伽藍配置が整ったのは8世紀半ば頃のことで、創建当初(8世紀初頭)は、講堂の位置に寺の中心となる仏堂があり、塔、金堂等は後から整備されたものと推定されている。)
道成寺建立のことを、伝説では「姫は黒髪を授けてくれた観音様と両親を粗末な所に残してきた事を悩んでいました。文武天皇は宮子姫がご恩返しをするための寺を建てることを命じ、大宝元年(701)道成寺が建てられました。」とあるが、実際は不比等達により、男児を産む道具として扱われた為、二人の時間がほとんどなく天皇が姫の気持ちを推し量ることは無かったであろう。では誰が道成寺を建立したのか、一番有力なのは姫の親ではないだろうか、それも姫が病にかかり回復の兆候が見られない為遠くに住む親としては、神仏に頼らざるを得なかったであろう。
最後に最も飛躍した想定であるが、姫は入内するまでは普通の女性であったのではないだろうか。初めから脱毛症の女性を幾ら権力の強い不比等でも、天皇の嬪に推挙しないであろうと思う。  姫は、入内後環境の変化から天皇も遠ざける程、精神異常をきたし遂には、首皇子を出産後、全頭性円形脱毛症か、もしくは、自分の髪の毛を抜き取る抜毛症(トリコチロマニア)になったのではないか、元々この抜毛症は、3歳~10歳くらいの子どもや、女性に多い脱毛症なので、幼少期にも坊主頭であったかもしれない。そして姫を知る人々は、日本書紀に出てくる仁徳天皇の妃「日向かみなが姫」にあやかり坊主姫を「かみなが姫」呼んだのではないだろうか。
この事実を知った郷里の両親は、姫を憂い、憐れみ、病気平癒を願い、道成寺を建立事実を隠す伝説をもって、今日私たちに、或る何かを伝えているのではないだろうか。

◯「昭和61年1月歴史と旅」より転載

夫人藤原宮子娘
父藤原不比等の工作で宮中に送りこまれた宮子の栄光と幽憂の日々文武天皇夫人宮子娘は、贈太政大臣正-位藤原朝臣不比等の長女である。その生年については必ずしも明かでない。不比等の子の順では二男房前と三男宇合の間あたりに位置するのではないかと考えられている。しかし、母親は彼らとは異なる賀茂朝臣比売で、同母の妹に長屋王の室、長娥子がいたともいわれている。比売は大和国葛城を本居とした豪族の後裔、播磨守兼按察使賀茂朝臣吉備麻呂の孫娘であるが、不比等に嫁した時期についてはよくわからない。
持続天皇11年(697)8月1日、軽皇太子は皇位を譲られて即位した。文武天皇で、時に十五歳であった。そしてこの月の20日、宮子は人内して夫人となったのであるが、文武との年齢差はあまりなかったと考えられる。この時分に用いられていた「浄御原令」がどのように規定していたか明らかではないが、仮に養老の「後寓職員令」と同じであったとするならぱ、夫人は臣下の中から冊立された者の最高位である。夫人に次ぐのが嬪で、宮子と時を同じくして紀竈門娘と石川刀子娘のニ人が人内、その嬪になっていた。嬪の実例は、この文武天皇の時のみで以後の記録には認められない。文武天皇はこの3人以外に皇妃は置いていない。したがって夫人宮子が正妻的存在になるのであるが、しかしそれは結果論であって、置かせなかったというのが事実のようである。
宮子の人内は、、父親不比等の工作によるものである。のち美努王と別れて不比等に嫁した県犬養三千代が、この人内に関わっていた可能性も主張されている。三千代は持統天皇の信任篤い、有能な内命婦であった。時に39歳であった不比等も、持続の信任を得ていた。天武天皇直系男子の皇位継承について、後事を託されていたともいわれている。したがって宮子の人内は、譲位後も太上天皇として国政に参与した持統の内意を得たものであり、文武が皇妃を置かなかったのも、その意向によった可能性もある。大宝元年(701)12月、宮子は皇子を出産した。首皇子とよばれたのちの聖武天皇である、そしてこの年、不比等と結ばれた三千代も女子を出産した。安宿媛すなわち聖武の皇后となった光明子である。記録によると宮子は、皇子出産後久しく幽憂に沈み、人事を廃して皇子に
も相見えることがなかったとある。幽憂に沈むという状態が病理学上どのようなことであったのか必ずしも明らかではないが、単なる産後の肥立ちが悪かったということではなく、極度の神経機能の疾患であったと考えられる。
その原因は、もちろん明らかにすることはできない。ただひとつ首皇子誕生と相前後して、嬪の石川刀子娘が皇子を2人も儲けていたらしい事実があり、首皇子が皇嗣として約束された存在でなかったことから考えると、これが要素の一部をなしていた可能性はある。とにかく以後、養老7年(723)正月、従ニ位に叙せられるまで、宮子の動静は不明である。この間、慶雲4年(707)6月には文武天皇が25歳の生涯を閉じられ、次いで即位した元明天皇の和銅7年(714)、首皇子は立太子するのであるが、この前年、文武の二人の嬪はその身分を奪われている。首皇子が宮子の異母妹安宿媛を妃としたのは、元明のあと即位した元正天皇の霊亀2年(716)であった。父不比等が薨じたのは、それから4年目、養老8年のことである。養老8年2月、首皇太子は元正天皇から皇位を譲られ即位した。聖武天皇、24歳であった。聖武は、母親宮子を尊んで大夫人と称することを勅した。時に宮子は正一位とある。ところがこの称号についで、不比等のあとの廟堂の首席にあった左大臣長屋王から「勅によって大夫人と称せというが、令による称号は皇太夫人である 勅にしたがえば令に違反し、例に従えば勅に違反することになるから、どちららかに定めて欲しい」という奏上がなされた。聖武は大夫人の称を取消し、文章には皇太夫人、言葉では大御祖とする旨の勅を改めて発する異例の事件に発展したのであるが、当事者宮子はまだ気鬱症の状態にあった。
その宮子の病が平癒したのは、天平9年(737)12月のことである。入唐留学僧玄肪の看護によるものであった。宮子は恵然と開悟したという。記録は天下慶賀せざるはなし、とするが、なによりも聖武天皇の喜びは大きかった。聖武はただちに宮子が居処としていた皇后宮へ幸し、37年ぶりの対面をしたという。快癒した宮子は、以来皇太后と称されてそして天平勝宝6年7月、百万治療すれどもなお平復せずとして、天下に大赦、僧百人・尼七人を仏門に入れて平癒を祈る詔が出されたが19日にいたつて遂に中宮で崩じられた。安宿媛が誄人(るいじん)をひきいて誄を奉り、佐保山稜に火葬したのは八月4日であった。のち勅により忌日は国忌の例に入れられている。謚号は千尋葛藤高知天宮姫之尊という。
僧正善珠は玄肪が宮子に儲けさせた子であるというとが『扶桑略記』などに記されているが、もちろん後世の俗説である。