川端末光翁 古代史を語る

現代の語り部、川端末光翁

第3部  先祖来歴の事
川端ていう姓の始まりを、いっぺん調べてみた事あるんですがね、川端はあの、和歌山県の紀州の川端と、滋賀県の川端と徳島県の川端と3つあるんですね。その中で滋賀県の川端を調べてみたら、京都に川端という餅菓子屋が、宮中に納めとった。そこでお宅の家紋は、どういう家紋ですか、て聞いたら,笹竜胆(りんどう)やて、あ、こら源氏の先祖をもっとるな、と。村上源氏ですんや、それもっとるんわ。いわく、電話で聞いたんですがね、わたしとこは、公家の何処何処からこの家紋を貰いましたんや言うからね、全くこの菓子屋の主人が、これ勉強してないんやね。あの、大正大学の教授が書いとる本にね、滋賀県の近江の川端は、源氏の流れと、それから徳島の川端は地形で川端と唱えとると。それから紀伊の川端は,金刺(カナザシ)の朝臣の裔(エイ、後裔)つまり子孫やと言うことを、書いてはるわけや。金刺の朝臣とは、どういう事をいうんか、というと、6世紀の欽明朝に、欽明天皇が天理の近くに、金刺ていうところがあるんですが、そこに宮を建てて金刺の宮という宮を自分で名のっとったんや。土地の名前やね、本によっては、カナサシと言う本とカナサスという本とあるんやけども。あえて私はカナサシというのはね、この金刺氏のこの<分れ>が沢山そのほうぼうにいっとるんやけども、これのほとんど名代(ナシロ)、子代(コシロ)ちゅう、つまりお名代といって、天皇の名代(ミョウダイ)で、各国々に天皇家を維持するために、もちろん天皇家から出た部族ばっかりやけどね、で、わたしとこが金刺の一番の元締めやということになってますな、ものの本には。そして、名代で紀伊の国に行ったいうことになって、他のその川端の姓はそういうことでね、同じ川端でも。ところが、川端ていう姓をいつ頃から唱え出したのかというと、鎌倉の末期ですね、いかなる事情でこの川端言う名前がでたんかとなると、うちに関しては,地名でもなければ何でもない、その塔、お寺さんの塔とそれから川原というのに縁があるように書いてますな。そするとこの川端が、寺とそれから川原との、縁があるということになると、8世紀に紀州の道成寺を建てたんが、紀伊氏のね、紀の道成(キノミチナリ)いうひとが道成寺建ててますんや。今の道成寺は海岸線からはるか3キロほど山手にあるんやけども、8世紀の頃には、道成寺の近くまで、その波が打っとったと、いうことですんや、その日高川がそれに沿うてズーと流れてきて川原を形成して、そしてそのお寺の道成寺の寺と川原とで、川端という名前になったと、その姓氏録に書いてますわ。そで、道成寺をたてた紀伊氏がどうかということになると、和歌山県には、紀伊氏が幾とうりもあるんですね、それで出雲系の紀氏、もちろんわれわれ川端、出雲系の紀氏になってますわ。それから、タケノウチノスクネの系統の紀氏と、それから紀ノ川の北岸にお宮さんがあるがそれは藤原氏が代々あれしてます、それが紀伊氏を名乗ってますねんな。
そやから、本当は一番大きな紀氏いうと出雲系の紀伊氏とそれから武内宿禰の系統の紀氏と二つが二大勢力ですんや。ところが武内のほうの紀氏は8世紀になって初めて、紀氏を名乗り出したんですね。それ以前は、我々の同族の紀氏が名乗っとって、8世紀で絶えてしまうんです。そのあと武内系が紀氏を名乗る、我々は8世紀にもちろん紀氏を名乗ったんです。なぜそなして、紀氏を、金刺から紀氏を名乗ったかということになれば、8世紀に要するに律令国家になる、それで名代を返上するわけですな。名代を返上する代わりに、郡司という名前を冠せられるんですね、これがそもそも地方豪族の始まりですんや、そしてこの、出雲系の紀伊氏はあの、大変な領地を方々にこう点々と持ってましてね、和歌山県下ではこの日高郡はもちろん全般そうやし、西牟婁郡いうて熊野のほうにも勢力をだしそれから日高郡の隣、有田にも勢力を出し、ずっと和歌山県の橋本市いうて五条との境に橋本市がありますが、そこにも勢力を置いてそして時の天皇家から預かった土地を持っとんたんですね。そしたところが、こんど藤原氏が台頭してきてドンドンと侵食してくる訳やね、これじゃたまったもんじゃない、そういうことで12世紀の中ごろ、岩清水八幡宮に百五十町歩の田地田畑を寄進しましたんや。
御坊市の南に塩屋村という村がありますがこれが北塩屋と南塩屋と村二つになって、それからその奥にモリていう村があって、その奥に明神川いう村があってそれ今度日高川よりの左寄ってくると、あの村は熊野(イヤと読ませている)、イヤという村があって、出雲から来た熊野ですけどね、これなんでそういうような当て字でやらせたかいうと、8世紀に天皇家の名代が治めとった郡司たちに、当て字でもええから土地の名前を報告せよ、ということになって、それぞれ当て字で以ってやったんですな。それでこの熊野をイヤて読ましたんか、ていうのは不思議でかなわんですね、読めいったって読みようがないんですね、これは8世紀の遺産ですな。もう何でもいいから、熊野をイヤと読ませたりね。それがその、塩屋いうのは土地の人とか古老やな、それからまあ知ったかぶりの人がね、塩を製造しとったから塩屋という名前だ、とこう言うのやな、そらもっともな事で塩もやっとんね、そやけど和歌山県で塩の一大生産地いうたら、我々の村からちょっと南に寄ったところに印南イナミいうところがあるんですがそこの塩の生産いうたら大変なものですのや。それと和歌山市の周辺に塩を製造した。これはもう、大変な塩の産出量があったんです、6世紀からズーとね。そやけど、我々荘園側の塩なんてよそに持って行くほど、沢山の塩はなかったんです。ただ、塩を製造するのにつけて塩の部族が居るんです。それが仁徳天皇のお后(オキサキ)やった、八田部郎女(ヤタベノイラツメ)てこういうお后がいます、これはもうやきもち焼きで有名だけど。この人の部族が塩を専門に製造しとったんです。そいで若狭の国から紀伊の国それから播磨の国まで、この八田部ヤタベ氏というのが塩を統括しとったんです。それが日高へ来て,塩を焼いたもんで、その塩をときの藤原京に送った木簡が出てきてますんや。紀伊の国日高の郡(コウリ)八田部ヤタベのヘヌシと、こう書いて、ヘヌシとは戸主とかいてるんや。そしたら日高の物知りがここらの豪族だったんだと、言うからね、戸主とはどのぐらいの勢いかというとね、まあ今でいう隣組の組長クラスですねん、もうちょっとよかって小さい村の村長クラスですね。それがそんなもん、日高の郡を云々したてなことは、知らん事も甚だしいですね、そういうことを土地のは言うとるが、これは馬鹿だから仕方がない。話が横道それたが、そんなんで、川端になる前はどんな苗字だったか、いうたら鎌倉の末から平安のその石清水八幡宮に、わがのその管理地を寄進するまでの間は、どういう苗字かというと、エイ、永久のエイという字を、これナガとよませとるんです。ナガという苗字でその下に命(ミコト)と付けてます。ながのみこと、何々の命てありますやろ、命という名前をつけるということは天皇家との関わりがなければ、命は付けられんのです、その当時ね。神代の時代には何々の命いうてね、あのーそのーつまり、藤原氏の先祖のアメノコヤネノミコト、なんて命つけとったけれど、もーしかし律令国家になって命を名乗れるのは天皇家以外にはないんです。それ永の命ていうの、それなんでそれするというと、紀州の新宮に速玉神社ハヤタマジンジャというお宮さんがあるんですが、そこのお宮さんの古文書に永の命と、そして後白河法王にたいして、手紙出しとるの、紀伊の国永の命と、そして後白河法王に対して熊野詣クマノモウデばっかりするから、それじゃ熊野へ毎年九十何石分のお米を寄進するから、それをその皇室でもって費用に当ててくれと、そして紀州の御坊へ来たらそこに御坊市の小松原いうところに仮御所を建てた。うちがね。天皇がお休みになる、その仮御所の費用を一切うちが持ちますということに於いて、それで後白河法王にその手紙だすんです、そういうこと書いて。それに永の命、そして後白河法王の後に今度は後鳥羽上皇がまたこれズーット熊野詣でするわね。それにたいしてもおんなしように後白川法皇にあれしとったから、あなたに対して今度は私の土地を寄進します、6ヶ村を寄進しますというようなことをいいだしたんや、というのが藤原氏が窺うてきたら、それから源氏が窺うてくる、そんなんでその領地が維持でけんのや、これいかれるから、寺にさえ寄進しとったら取りにけえへんわね。そしてその後白河法皇にその寄進した土地はどうしたかというと後白河法皇は・・・後白河じゃないわ・・・後鳥羽上皇はそれじゃ熊野へやれば、この土地を熊野にやれと言う詔(ミコトノリ)を出したもんやね、そやけどあくまでもうちは自分の寄付したやつは自分が管理するいうことになって、その当時領家職という、領地の領と言う字に家とかいて、領家職ですな、領家職と言う名前を貰うんです、そして寄進した土地は全部うちが管理すると、そしてうまい事考えとるんですね、領家職になったらその土地から揚がる揚がり賃は決して税金ださんでもええんです。それは不租・不入いうて租税は払わんでもええ、国司が入ってくる事もいらんとこれ不租・不入いうんですが、そういうことを取ってしもうたんですな、うちが。そうすると、揚がってくるやつは、そのお宮さんとか石清水八幡宮に僅かしかやってない、あと全部取ってしもうとるんですがな。考えたんですな、世渡りですな、了解しよったんや。
永の命が領家職になってそして今度鎌倉時代になってきたら、いよいよ今度は世情がおかしくなって、下克上やな俗にいう、それで天皇家のいうことを聞くようなやつはおらんようになってしもうた、領家職もでけんようになってしもうた、で川端と名乗って元の6ヶ村をズーッと守っとった。そしてしかし南北朝になって、うちはどーいうわけか知らん,南朝を応援するんですな。打って一丸として吉野の南朝を応援するんです。そして、旧の領家職をやっとった当時の領地の先からドンドンドンドン侍をうちの村に引っ張って来るわけですわ。奈良県の五条市の半分昔のうちの領地でしたんや、そこからは平井氏やとか崎山氏なんていう土豪を、家来を連れてるやつを引っ張ってくる、それから橋本市からは隅田組スダグミ25家連れてくるんですな、これ1家いうたらどうかというたら馬に乗れる格式のものを1家いうんですね。それは必ず20人ぐらいの者がつくんですから、そすると方々からそういう人間を寄せて、ざっと千人からの人間をうちの村に呼んだんです。それで南朝方に戦争させたんです。ところがそんな小豪族までに落ちたものが何でそんなに出来たんかというと、いまいう船をもっとった、そして海外貿易をしきりにやっとった。それでまあ儲けとるんですな。だからうちには朝鮮の古い壷とか徳利とか、ようけあったん何でやろな思ったらそういう関係ですな、貿易しとった。そして室町時代に入っていったらこんどは石清水八幡宮が勘合貿易やるのに付けて、全部うちが責任持ってやったんです。それで特に朝鮮、北鮮へよう行ってますわ。それから南方、沖縄からもっと南までいっとるんじゃないですかな。そういう事歴があります。そして、これ話がごったになって下がってきて、もっと上がありますんやけど、今下がってきて話しとるんですけど、いっそ下がったままで話しましょ、後でまたさかのぼって話します。そして勘合貿易で川端言う姓でもって南方貿易や北方貿易をやってまあ、この金カネくそのほど持ってますわな。それは南北朝から室町にさがって、それでも金そんな事でできたんやね。で今度戦国時代に突入するわけですね。そのときうちの禄高がどれほど有ったかというと、今の6ケ村、6ケ村の石数が約6千石から一万石くらいの石数ですわ。もっとったんが。大名ですな。そして今度は、外航船の船を沢山もっとたんです。それでもって貿易の揚がりがあるんですな。だから相当な物持ちですねんな。そうしてやっとったのに、戦国時代に土豪から急に勢いを付けた湯川氏というのが、これが石でいうと20万石ぐらいに相当する土地をいわしてしもうてね、そして豊臣氏と戦争するわけだ、豊臣が紀州攻めに、ね。そのまえにうちは湯川氏に攻めれれる訳だ。で、攻められて結局船へでも逃げたんでしょうな、私どもの先祖は。もちろん焼き討ちにもおうてます。そのときにことごとく、ないよになったような状態ですね。それで、かろうじて系図かなんかあったんかしらん、戦争が終わってそしてその今の五条市の土豪だった崎山というのが、南北朝に塩屋の村へ来てうちの仕事をしとったのに、それが代官として、それは御坊市の市誌にでてますけど、代官としてでるわけだ、うちの古い古文書を持って。こういう家柄やから、あんたたちに土地を取られるいわれがないんだということを言わしに行った訳だ。そしたらあの文面では湯川氏は、そうかとそれやったら6ケ村とそれから<名田村>ナダムラ言うて、これは昔うちが代官をしとる時分に開発した村が名田村言うて、今でもそやけど、名田とは要するに開発した土地と言う意味らしいですは。そこの1町3反歩をかえそと、それからイナミ周辺をかえそ、イナミ周辺言うたらね切目王子神社言うてね、ゴタイオウジ言うて、九十九王子のなかの一番有名なお宮さんですね。その周辺をかえそとなったんです。そしてそれは平穏無事だったけども、豊臣家がこう押してくるわね、今度は私の所が寝返ったのかどうか知らんけれども、淡路と徳島と紀州と3国の船がうちの村の沖にドーッと、100艘から船をつないだちゅうんですね。ほで、湯川氏がね前で一所懸命攻められてるのに後ろのはすかいにドーッと船がきたもんでこりゃたまったもんではないと、南へ逃げるんです。逃げてそして結局堀尾茂助ホリオモスケいう、豊臣がたで堀尾茂助というのが来て、そこで和睦をするわけだ。和睦をしたとき当時大和の郡山に、豊臣秀吉の弟が郡山城におってそこへ湯川氏一族郎党30人を呼んで一大酒宴を開いたんです。そしてそのときに、全部30人とも毒殺してしまうんです。湯川氏を。うちはそんなもん知らんけど。豊臣氏はそういうことをやって、湯川氏を根絶やしにしてしもうた。そして今度浅野氏が紀州を領しとったけど、慶長時代に浅野氏はご承知のとうり、豊臣がたから徳川がたについたもんで、そのまま55万石、当時30万石程しかなかったんですが、和歌山県が、それが今度、広島芸州の広島へ変わるんです、そのときに湯川氏の一番血の濃いいもんを連れてって、500石でもって、向こうへ湯川氏をつれていってしもうた。そういう経緯になった。それで慶長時代にうちはどうなったかといったら、6カ村はもちろん徳川氏に取られてしもうて、その代わりにこの日高の海岸線から揚がる漁業の揚がりと通行税はお前のところが取れということでもって、漁業の揚がりでもって、塩屋村北塩屋、南塩屋で35石、隣の和田村で20石それから日高川の河口にあるナヤていう部落があるんです、そこは船を沢山もっとるんで、それから20石それから今の御坊市の御坊というところ、そこから50石で、それで周辺の村村全部合わせて150石もらうんです。そして今度はその水主カコ240人預かっとるから、水主とはつまり海軍ですな、船乗りやから。240人預かっとるから、それのお役料として45石貰うんです。何で5石ちゅうような半端をくれるんかいうたらね、郡奉行が40石ですのや、ところが日高の郡で一番の長はうちやったんやから、そやから5石だけ名目上余分に乗せてくれてますな。だから45石とそれから今の150石と、諸々あわせて田舎で200石というたら大変なものでしたんや。で、240人の人間を預かるということは、万石以上の大名でないとでけしめへんね。
1万石で200人の人間をいごかすいうことになってますんや、侍を。川端の水主は、5石2人扶ちを全部もろてますから,士分ですわな。それを200人預かったいうことは、これは万石から以上,つまり240人、1万石で200人やそうですわ,合戦するときの万石の格式は。それまだ40人越しとるいうことは,万石以上の格式があったいうことですな。それは、明治まで。明治初年に,いち早く解体して首になったんや,川端家でもね、紀州家から。そして今までの行政でたずさわっとった連中は、明治5年まで昔どうりの禄を貰ってましたんや。川端はその殿さんの秘密な事やらしてもろてるからね、密貿易もやるし、色々やっとるから,いち早く解体せられた。当時ね、二万坪有った,川端の宅地が。明治の初めまで。それ今70坪しか残ってない。みんな売り食いして。売り食いせん事には、川端は百姓も商売も何にもしてない、土地売らな飯くえん、ほんま売り食いでしたんや。それでね、塩屋一番地の一て言う番地が有りますね。塩屋一番地の一になりましたんや、うちが。そしたらね明治36年に私のおじいさんが若うて死んだんやね、その死んだときの寺の過去帳を見たら塩屋一番地の一、川端善蔵て、こうなってますんや。明治36年までは一番地の一ずうと、持ってましたのに今ね,千四百何十番地になってるんや。おじいさん死んでから後家でおばあさん苦労しとるもんやさかい、村の有力者が勝手にところ(所)番地を変えとる、ところがお寺の過去帳までは、すり消さなんだんやね。それが残とって、この前びっくりしたんや。そうするとうちの村に旧家でございますいう、たいへんな家が有る、中◯家いうてね。これも調べてみてん。この中村家が、どういう風の,中◯家か。こいつが塩屋の一番地の一を持っとるから。どーゆーことやろ思って調べてみたら面白いんですな,徳川の吉宗がね将軍になるときに連れてったのにね、お庭番と言う隠密を17家つれていってまんね。それまで江戸城の中のお庭番ほとんど伊賀もんをつれてましたんや。それを一切替えこして紀州から連れて行った。その中にうちの村から出たお庭番が3人おるんよ。これも調べて分った。それはね、明治20何年に、何とかいう朝日新聞の前身が、座談会しとるんよ、本の記録、あんたに連れて行ってもろた神保町で手に入れたんです。そしたらその時に、最後に残ったお庭番の家の人が、各17家の出身地と家名を書いとるんやね。それにうちの村からね、野尻と言う姓のもんとね、吉川という姓とね、中村とこうある。そして調べたらなんとこいつ隠密か、ここの家からでとる、隠密は。この中村家は3石2人扶持しかもろてなかった。これは、黒船が来たら火をたいてのろしを上げる,烽火番ノロシバンをやっとったんです。ところが田舎っていうところは、2本差した武士が1番上やったから、たった3石2人扶持でも威張れたんですな。最後まで。我々のほうは,明治の初年に解体せられて,あいつらは明治5年まで刀差してやっとたんやから偉い人やね。村で1番偉い人やったんね、それがその,根来の鉄砲隊のあがりですんや。慶長年間に、家康が自分の配下を紀州に入れる時に、根来の鉄砲衆を、根来に鉄砲衆はようけおった、忍者もよけおった、この鉄砲衆を210人入れるんです。そして100人は和歌山城内で鉄砲隊として取り上げて,後の110人は紀州全6郡に全部配置したんです。その中で、いちばんようけそいつを押し付けられたのが、日高郡とそれから和歌山の市のところの海草郡と、これとが30人づつ、ぶちこまれた。あとは4郡に散らばった。その中には、山家同心、山を警戒する山家同心とか,海岸を防備する連中とか、で、そいつらが目付けで入ったんです、こんどは村々の。昔はそんなんやったね、紀州の徳川家はすごかったんやね、尾張も一緒らしいけど。村々に入れたんです、目付けを。そいつらがなんぼもろとったかいうたら、6石もろてました。そして、どーいうことでいったか、ゆーたら、皆ね総髪やったそうです。その、僧兵上がりやから、チョンマゲは結わしてくれなんだ、総髪やそうです。それは、承応年間まで約五十年間それやったんです。それから、今度は大庄屋にみな取りたてられて。こんな制度知らんわね,紀州だけか知らんけどね、ズート向こうの大庄屋しとるかと思ったら、こんどは日高の郡の大庄屋へ来たりね、こんな・こんな しとるんやね。普通庄屋さん言うたら、そこの村に住み着いた代々の人やていうけど、紀州は違うんです。そういう大きな庄屋さんは、全部そんな僧兵上がりを絶えず差し替えするんですわ。それで、中村氏なんかは文化年間にそれまで大庄屋しとったのに、一介の烽火山の番人になるんですわ。去る変わりに,おまえは永年紀州の為に尽くしてくれたからいうて地士チシ(郷士)紀州家藩士3石2人扶持、1人扶は米5合ですわ。だから2人扶ちは米1升を現物で支給してくれるんですわ。3石は時の相場で、お米の相場で、銭でくれるんですわ。3石2人扶持いうたらもうほんとに、最低の、足軽でも5石2人扶いうたら,最低ですね,伊藤博文があれ5石2人扶持やからね。そのまだ下ですね、それが村では刀差して侍やさかい威ばっとるわね―、中村氏なんていうと、どこの中村氏なんか知らんけど調べたらそんなことやったんや。今年は秋祭りにかえったら、みなばらしたろ思ったら、秋祭りに帰るどころか、水害でこないなってしもうて,行けなんだんで、来年の祭りには行って全部ばらしたろ思って、ドコドコは何々のあがりや、いうて。村で一番のお医者さんで有名な葉山ちゅうなんは、よう調べてみたら、この葉山が伊賀もんやいうことがわかったの。おかげさんで田中はんに神保町に連れて行ってもろうて、みんな文献があったんよ。村々の旧家いうて、これほど頼りない事はない。これみんな、要するに元禄からこっちね―、庶民が財力を蓄えるように成ってね、それぞれに嘘八百を並べる。中江兆民の息子丑吉が言うことにね、3代たてば立派な貴族になる言うて。そやから、ある人が言うとるのに、うちの系図は、家系はこれこれ言うて嘘八百の系図を書いてそして4代たったらそれがほんまになってしまう言うんやね。ところが悲しい事に、そういう系図が実際調べてみたらほんまかいうたら、ほとんど嘘やね。というのはね、史実も何にも知らん系図買いが皆書いたもんでね、まったくでたらめやそうですわ、百が百とも。でたらめやそうです。調べてみたら。旧家の家の系図を見ても。4代たったら、嘘がほんまになってしまう。4代いうらね、120年だ。120年前に嘘言うたやつが、現在になったらほんまになる。そやから、文化年間に鉄砲2丁かついで烽火山ノロシヤマの番人しとった中村氏が村一番の名家であるてなことを言うとるが、文化年間からいうとちょうど200年でんねや。そうすると嘘がほんまになってしまう。いかに田舎の歴史の曖昧さというか、100年も経ったら嘘がほんまになってしまう。こらまあ、横道にそれて明治まできましたけれども、いまいう南北朝からむこうの室町時代の勘合貿易、まあこれおいといても、南北朝の時代は方々から寄せてきた人間が村へいついてしもうて。それが旧家になっとる。まあこれはある程度受けられるんです。うちの為に働いてくれたんやからね、いまいう崎山氏にしてもそうやし、それから平井氏こいつは途中で湯川氏に寝返って湯川氏の一武将になっておおいに我々は悩まされたんだけど他で割と戦ってる。それから南北朝のその向こうの鎌倉時代に、いまいう川端と言う名前に変わってしもうて、その鎌倉時代から向こうは永之命ナガノミコトいう名前で、その前平安の中から向こうは紀伊氏8世紀からこっち紀伊氏になって、紀伊氏の前は今いう本に金刺(かなさす)の朝臣とこうなっとるけど、実際果たしてうちが金刺と言う名前を名乗っとったんか言うたら、大和の吉野の入り口に談山神社タンザンジンジャいう藤原氏の有名な神社がある、そこの古文書に紀伊の国の金刺の何がしというのがお宮さん参りに来たと、奈良時代の事にね。そう言う史実があるそうですけどね。この前、祭りの出てきた行列の道具立てを見たら、高松塚の古墳ででてきたものと、全く同じもんでね、それと長野の諏訪氏、諏訪氏の前身は金刺ですわな。で、これ長野の諏訪神社の祝詞言葉に紀州の我々のとこのイナミの切目王子のところに植わっとる<なぎ>の葉っぱを頭の髪に刺して、どないやこないや、という祝詞言葉に出てきとんやね。諏訪に。名古屋の尾張の国かて、やっぱりその紀州のなぎの木の事を、紀州の切目キリメの、前に言ってた海が凪ぐという、それがお神楽言葉、巫女の舞うお神楽言葉にでてますんや。それで鹿島神宮、茨城県の、あそこにもなぎの木を沢山植えとるんですわ。なぎの木というのは、大体温暖なところでないと生えんのやけれども、奈良県の春日神社にもなぎの木はようけある、というの春日神社は、鹿島鹿取神社の分身ですのや。春日神社は。藤原氏の巨勢コセ氏いうのがあそこの神主しとったんでね。で、可笑しいのはね、それからいうてね、金刺の中からね、上泉伊勢の守コウズミイセノカミなんてこれ金刺の出ですんや、それから剣豪と木曽の義仲の別嬪さん巴御前。これも金刺からでてますんや。金刺から出た人間で大名になったのは、その諏訪氏と九州にひとつあるんです。それが岩井の叛乱でうちの先祖が向こうへいって戦争したいうね、それが向こうへ土着して明治まで3万石の大名でおりますわ。諏訪の高遠藩も3万石ですわ。うちに関しては、ほとんど船の関係で、きてますな紀伊水軍でね、船の関係で。
<昔の奈良時代の天皇家との関係がありましたね>
ありますよ、七世紀藤原京の天皇の即位のときに大伴氏と我々の先祖の猛部君タケルベノキミが、大伴と宮殿を取りしきってお守りしたんです。
<お姫さんは>
ん、お姫さんはうちから出た人が聖武天皇のお母さん。宮子ミヤコ。これ、藤原氏に養女にいれて、うちからでとるんよ、宮子はね。郡司の家から全部女官を取ったもんやから。郡司にはね、大領,少領、主政、主帳と4家あるんです。この中で天皇家でお后で迎えてくれるのは、大領と少領とふたつだけですのや。昔はほとんどがそおいう我々のような天皇家とつながりのある家系でないと皇后さんは入れなんだんです。ところが藤原不比等、これがそのうちの宮子を養女に入れてね、これを文武天皇の皇后にいれてしまうんや。藤原の宮子言う名前で。それで出来た子が聖武天皇や。
そう言う家系やね、そう言う家系やから。それでね、宮子の出生をね、向こうの土地ではね海女の娘でものすごい髪の毛が長くていい髪しとって、時の天皇がすずめの咥えてきた長い髪の毛を見て、こんな立派な髪の毛をもっとる女やったらさぞかし別嬪やろ、それを連れて来い言うて,行ったんが宮子やいうお伽話になっとるけど。海女の娘ごときは、便所の掃除もさしてくれなんだんや。宮中に入るいうことは。それほど宮中は、家系いうものを大事にしとったから。これはおとぎばなしで、土地の伝説では髪の毛がながくて、<かみなが姫>と言う名前であれした、という事になっとる。そやけど、ほんまは違う、私のところのような地方の豪族出は、なんぼ家がしっかりしとっても、藤原氏にはかないません。藤原氏は宮子を入れてからですよ、どんどん藤原氏からお后を入れたのは。最初はうちの娘を連れて行って、藤原の宮子という事にして、文武天皇に嫁に行かして、それから藤原氏がどんどこ。それから,紀伊氏は100年ぐらいは続いてますな、お后で、紀の何々ちゅうて名前でいってますわ。仰山入ってますんやで、うちは、天皇家へ。そやからね、代々調べたらね、村に親戚一軒もないの、わしとこ。親戚ないの、村のものと結婚せんから。ほとんど、京都へ行ってますな。私の叔母がね、あのー、知恩院へ嫁に行ってますよ。そしてね、坊さん死んだんでね、未亡人として帰ってくるときにね、明治の終わり頃やったかね、当時のお金で3万円貰って帰ってますんや、あの当時ね田圃一反なんぼかいうたらね、30円かそこらで買えたらしいね、3万円言うたら村はおろか和歌山県下でもそれだけの金を持ってる人はおらなんだ。ところがうちの叔母はんは別嬪さんでね、男ごのみでね、当時新派でね桜井なにがし言う役者がおってね、これに入れ揚げてしもうてね。北は樺太から、南は台湾までついて回ったんや、この劇団に。なんとね、3年間でその3万円ないようにしてしもうた。豪儀ですね。そのなれの果てどうかいうたらね、仙台にね香具師の大親分でね、西条というものがおるんですよ、香具師で。的屋の親分で。それと一緒になってね、叔母はね四国の高松にね、タカマチいうて方々に大きな祭りがありますんや、そこの香具師の取り締まりになってうちの叔母は行ったん、高松に。波乱万丈。それで女親分になっておってね、それで私の父さんを連れてね高松にいったんやわ。うちの親父は、なんでそんなとこへ連れて行かれたかいうたらね、和歌山にねお船奉行いうて、船奉行がありましたんや、その船奉行の管轄下がうちですわな、家柄はうちが上やからね、その人が今もまだありますけど、その中井活版所後の中井洋紙店へうちの親父が養子にいったんやわ、これ和歌山県の船奉行しとったうちや、船奉行とうちは関係あるわ,うちは船の関係やったから。そこへ、養子にいったんや、ところがうちの親父は末っ子やったんで、甘えん坊だったんやろな、祭りどきになったら帰りたい帰りたい言うて騒ぐらしいワイ、んなら大阪に尻無川いう川があってそこに日高屋いう、代々川端が贔屓にしとった廻船問屋あるんや、その日高屋へ行ったもんや、香枦園いうところに別荘があってそこの別荘から日高屋までいったんや、そしたら紀州の日高の船がとまっとって、ほたらうちの親父がどう言うたいうたら、<おいやん塩屋へ連れて帰ってくれよ>おまえ誰や、言うたら<わし塩屋の川端の栄三郎や>言うて<あー英ちゃんかえ>てなことでそのままとっとと帰ってしもうた、そして養子に行った先に帰らなんだ、そのままいついたんや、ほたら村でカッコ悪いわな、ぶらぶらと、ほんで姉が高松へよんだんやな、高松へ呼んだらそしたら姉かて困るわな、そんなややこしい連中のおるところへ家の親父を置く事ができんので、左官の棟梁で弥太ハンて言うてこれ有名な人やけどね、そこへほうりこんだもんや、そこの一人娘とね、その娘が16で、うちのおとっつあんが21や、乳くってしもうてね、こうなったんやがな、弥太ハン怒るわな、満足に左官の仕事もできんのにそっちだけ早いさかいに。それで、無理に別れさされて、そしてその母親とできた子弥一郎と言う名前やわしの兄貴は、わしと九つ違いやけど、弥一郎と母親とそこへ残して、単身で紀州に帰ってきた、失意の中で。ところが信榮ノベハン言うて私の母親やけど、信榮、子供ほっといて、親父に預けといて、単身紀州に追っかけてきたんね。安珍清姫と一緒やな、そしてプツーとできたんがわしや、どうよー(マッタク)、漫画やで、おまはん(大和五条弁)。ほんまの話しやからかまわんで。めまぐるしいけど、好きな男やからついてきたんやわな(大和弁)。わがの子供を親に預けといて。
<お母さんは、修行に行きはった家のお嬢さんね>
そうそう。左官やの娘。その左官屋のほうも家系がおかしいんやな。この左官の、母方のおじいさんは、真言のお寺の、昔から真言のお寺言うたら直接嫁さんをお寺に入れるわけにはいかんけど、嫁さんとしては、ダイコクとゆうあだながあるんです、真言については、奥さんの事を。そのダイコクさんの子供が、私のおじいさんや、真言の寺の坊主の胤でね。これがそのそんな事でどうなるのか知らんけど,旧の高松藩に非常にかわいがってもろうてね、ほれで高松藩に永井袖次郎ナガイソデジロウとゆう豪傑がおって、お馬廻役で100石か200石かもうとったらしいわ。それのお妾さんの子供がうちの母親や。永井袖次郎の。それが養女に来たわけや、お爺さんのところへ、左官の棟梁のところへ。で、蝶よ花よと大事にしとったやつを、うちの親父が左官の弟子に入って左官ならうより先にその子を作るのを習ってしもうて。なー、そなことあったんや。
<皆さん平凡じゃないですね、賑やかで>
それを、覚えとるのわしやな。ほかのもん知らんわな、覚えてないもん、覚え悪いさかい。ほんまに、映画や劇画の主人公みたいなもんや。
<いま、明治まできましたね>
ん、明治から向こうはええ歴史おまへんけど、あんたに一度写真送ったことあるけど、高松塚にある壁画と同じ祭りの四神の行列、星座まであるんですよ。祭りで、星座まで持って歩ってるんですよ。
はなしとしておかしいんやけど、私の妹が出来た当時はね、ミコトと言う字を、名前に書けなんだんです、足利尊氏の尊とゆう字を。
皇室に関係するから。それを、うちの妹は尊子と言う名前をつけてますよ。役場がそれをすんなり通してくれたとこみたらね、認めとるんですよ。普通は付けられませんで。マルコウは、お公家さんの子孫はみなつけてますわ。公のこうは。西園寺公望の公と言う字、これはお公家さんも使えたけど、尊はお公家さんも使えなんだ。
うちは、妹は尊子とかいて、これは終戦以前は使えない名前です。
平民はね、不敬罪でとられる。つけたらいかん名前があったんです。
尊なんで言う名前つけたら大罰くろうて。天皇家以外使えない言葉です。親父は、左官に修行に行った人。お爺さんは紀州で200石からもろうた家系。ダイコクサンの子供さんと言うのは、香川県の方、ははおやのほう。そのね、ナガイソデジロウさんはね、香川県で山高帽をかぶってフロックコートを着てステッキついて歩いた一番最初の人やそうです。ハイカラさんだったらしいですわ。

第四部 古代史を語る
出雲文化圏と和歌山文化圏の関わり。
洗骨葬はね、宝暦年間(1751~64)の墓所から向こうは生の骨がはいってます。焼いたのは、宝暦からこっちです。宝暦前の墓をめくったら、骨がくさい。200年以上前の骨が、まだくさい。いっぺん3年埋めて、引っ張り出して洗って又埋めるんです。骨の中には髄があって、これが醗酵して鼻持ちならん臭さだっせ。与那国島では今でもやっている。墓の山の山向こうは、骨だらけ。埋めるのに全部が全部は持ってこれませんやろ、埋めるのに。野ざらしではなくて埋めているけど、雨で出てきたんです。一部を、墓所にもってくるんや。頭蓋骨なんかそのまま、向こうに残ってます。骨壷は小さくて入れられしまへん。そやからうちの浜辺の松林の中からコロコロこういう頭が出てきますよ。わしら子供の時分にね松林で、甲虫のような小さい虫がはいっとるんよ、その穴を一生懸命堀っとったらね、<出た>言うて、頭蓋骨がコロンと出て来るんよ。
洗骨葬で、和歌山県下で今の所わかっとるのは、私とこの村と印南町いうとこありますんや、そこと2箇所。これは、出雲系ですな、印南もうちの古い支配地やったからね。日高郡の中に印南町てあるんです、旧の代官のあったところね。それで、地形が出雲のそれと似てるんですわ。つまり沖から見たら日高川があって、日高川の方、内海がこうあるんですよ、潮が絶えずこう入ってね、沖から見たら中に池があるんと一緒ですな。丁度出雲の宍道湖の情景とおんなじようなんですわ。中にやっぱり大きな島があったりして。
そういう事やで、昔の人がそないな、なんでやっても。それと出雲とおんなじ地形、名前があるのは北から言うと、<ヒイ>。これは出雲に斐伊川のヒイというところがある。それからヒイからちょっとこっちへ来ると、<日の岬>いう岬がある。これは出雲とおんなじ。それから日の岬の付け根のところに、岬神社てある、これも出雲とおんなじ。それからその海岸をズーット来ると、よしわらという所がある、よしわらとはね紀州では葦のことをヨシと言うんです。出雲では、葦原てこう言うんです。それからズーと来るとソノていう所ある。これは出雲には、岬神社からズーット来ると、ソノの長浜ていう場所がある。これは、国引きのときに綱の尻尾がたれとったて言う有名な地形ですんや。これ紀州にも我々の田舎にもソノていうところがある。それから日高川を渡ってうちの村に来ると、塩屋これは出雲では塩谷(エンヤ)とこうなっとる。塩谷郡(エンヤゴウリ)ていう。うちのほうでは塩屋シオヤていうけどこれは,実際は塩谷エンヤて言うのが本当ですんや。それでその塩屋の奥に森て言う村があるんです。森いうたら、大国主の命が国譲りの会議をしたところが森郷ですんや。これ出雲にあるんです。森ちゅうのが。それからイヤていうのね、熊野イヤ。これはご承知のように、熊野神社があるくらい、熊野いうて、出雲にね、それはうちの郷にも、熊野て書いてイヤて読ませてるよ。それから紀州では山谷サンヤて、出雲では三刀屋ミトヤていうんだけど。このサンヤも、うちの村からちょっと行った所に、サンヤていう部落があるんです。もっと探したら出雲と同じ名前が沢山出てくるんです。それといまいう洗骨葬いうて葬式の按配からね、そやから出てくるもんは朝鮮の物が沢山出てくる、うちの村から。朝鮮人が持っとったもん。それと古い神話では、須佐之男命スサノオノミコトの子で、五十猛イタケルの命いうのがおるんです。それが須佐之男命と、親子とで、新羅の国に行ったり出雲に来たりして、そして結局はこの五十猛命が紀州へ紀伊へ植物の種子を持ってきたという伝説があるんですな。で、植物の種子なんて持ってこんでも、紀州は昔から大森林のあるところやから、これは朝鮮からあるいは出雲から人間を連れてきた、とこうわしはとるんですけどね。そして和歌山県下のお宮さんには、必ず五十猛命を奉つっとる。それと紀州の南のほうに行くと、三輪崎という所がある。それから三輪崎からずっと、一里か二里ほど下ってきたところに、出雲崎ていう、出雲と全く同じ出雲崎ていうのがあるんです。紀州さがしたら、出雲の名前、地名が沢山ある、内陸部にも。いかに出雲人が入ってきたかちゅうこと。それで、日本の人類学者に言わせたら、近畿地方はほとんど出雲族ですね、入ってきたのは。備前に有ったといわれる王国とも関係がありますね。出雲は、瀬戸内に何箇所も根拠地を置いてますよ。それでね、兵庫県に塩屋いう所がありますわな、それからわれわれのところにも塩屋があって、伊勢にも塩屋があります。これらは、ほとんど出雲族の根拠地です。出雲族いうたら朝鮮と言ってもいいくらいやで。昔、大正時代まで出雲族は換骨(ホホボネ)が出とったんやもん。それがミックスしてしもうてね、低くなってきたけどね。韓国人は、ほほ骨が高い、特に済州島の人間なんか特にこれがきつい。だから、大正時代までは、ほとんど朝鮮系の骨格だったんです、出雲のほうは。それでね、うちの方でね盥タライを頭に載せて歩く風習があるんです。物を運ぶときに。これは南方にも有るんです、伊勢からうちのほうにかけてね、これみんな盥を頭の上に載せて。大原女は柴を運んでるけど,うちのほうは盥や、で盥に何入れとるかいうと、魚入れとる。棒手振りボテフリいうて、魚売りに来るのに、包丁も魚もここに放り込んどいて、<鯖要らんかの、鯖要らんかの>言うて、売りにきよった。わしら子供の時分に。これは,朝鮮と全く一緒や,南方もそれやるけどね。それとね、インドネシアのバリ島へ行ったらね、びっくりしたのはね、和歌山県の南の方の海岸縁の漁師と一緒のね、同じ姿しとるね。腰巻巻いてね,ねじり鉢巻してね,これから上は裸かんぼうでね、紀州の漁師皆そんなん。バリ島の漁師も腰巻舞いとんね、おんなじ姿や。南方と出雲と色々ミックスやな。そしてこないだ,沖縄の与那国島と言うところ、洗骨葬未だに続いてますな,与那国島。女の人の名前が、二つ有りまんね。本名と通称と。うちもね、本名と通称と有るんや。うちのお婆さんはね、通称はおとくさん,本名はすえ。うちの叔母さんはね、通称は、てい、おていさん。本名はね、ふくえ。ほしてその、一族全部に女に<え>が付くんです。わしの妹が、かずえ、たかこだけは尊、みことつけとるけど、その上が、ひろえ、わしの兄弟ね、その上が、きくえ、それから本家の娘がしずえ、全部えが付くんです。なんか理由があるんでしょうな。女、何処からでてきたか、言うたらうちのお婆さんの里は愛媛県に、河野氏て、有りまんね。海賊で。うちらかて海賊やもんね、そのこうの氏のね一族にね、18家あるんですけどね、それの筆頭がね、土居氏です、その次に得能と言うのがあるんやけどね、その筆頭の土居氏がね熊野に応援に来るんです。南北朝のときに。そして熊野の代官になるんですな、そしてうちの村に代官で来るんですよ。そこの家系からうちのお婆さんは嫁にきてますね、土井氏から。だから元は伊予の河野氏です。それから、さきにこれは出雲と関係ないやろけども、私とこの苗字は永と言う苗字だけど、長と言う字の苗字をいいました、徳島の方とこっちの那賀郡、長氏のほうね、これらはうちらの外戚関係ですな。おなし様に、ながて読むんやけど、永久の永と長のなが、みことはむこうは付きませんよ、うちとこはつくけど。話し元に戻るけど、出雲の地名が沢山あると言う事、なへんにありや、出雲人が沢山おったと言う事やね。それで、それを統括するのに、個人が勝手にわしは森から出てきたんやから、森の部落のもんやから、だから森につけたんや、というんやないね、やっぱり、おおし<太氏または多氏>の関係ですね、うちはあの太安万侶が日本書紀に神武天皇の子に、カミヤイミミノミコトと言う皇子さんがおられたんやね、その下の弟が後の綏靖天皇スイゼイテンノウや、神武天皇の次の天皇や、兄貴のカミヤイミミノミコトは臆病やったと言うような話しに書いとるけど、で、自分がもっとる軍勢を弟に譲ってわしは神に仕えるから、おまえはこの国を治めよと言って、カミヤイミミノミコトに多氏が出たと、多氏の下に金刺(カナサシ)がでた、と太安万侶は書いとるんや、おのれのとこ太氏オオシやから、実際言うたらご承知のとうり神武天皇みたいなもんおった例はないんやからね、それをわざわざ拵えると、ところがそれによく似た事柄あるんやわね、あの6世紀の出雲系の天皇、それが越の国コシノクニ今の富山県に大和の天皇家の一族がおったんですな、天皇家が全部絶えてしもうて、かろうじてその越の国におった訳だ、その越の国の娘をオキナガシと言う出雲系のそれが、嫁に貰うわけや、出来た子が天皇になるわけや、そやから百済系の天皇から、新羅系の天皇に代わるんが6世紀やね。そしてそのお子が欽明天皇になるわけや、そやからうちの家系は欽明天皇の兄貴にあたるんやなかろうか、と言うのは、その天皇が尾張の国にいって2人子をこしらえとるんやわ、そして近江の方に2人子をこしらえて、その中で欽明が弟に違いない、と言うのは平安時代に三代実録の中にそのお公家さんがやな、世が世であればわしとこが天皇家やてなこと言うとるんやからね、そやから神武天皇のお子2人が刃向かうてなるほど2人が、おまはん、宣化天皇やなんやて、これ明治になってからオクラレタ名前やけど、時の天皇に刃向こうて言うこと聞かなんだわね、それをその太安万侶が神武天皇におきかえて書いてるんやと、こう思うとるんやね、わたしは。事柄がおんなしやもん。
神武天皇が、九州の方で子を2人拵えてそして大和に入ってきて、そして三輪族と一緒になってできた子供がカミヤイミミのミコトと
後の綏靖天皇スイゼイテンノウと2人男の子がおった、そしたら九州からその二人の息子がわれこそが天皇じゃと、おまえら後から生まれたやないか、とこうきたと、それをその弟が迎え撃ってうち滅ぼしたと、こう言う筋書きになってますんや、ところが6世紀のその天皇は、これは出雲系の天皇ですわな、それが名古屋の方で子を2人先に拵えて、後にこの近江で子を2人拵えた、その中の一人が6世紀の継体天皇で、その子が我々の金刺を決めた欽明天皇やわ。先に言うた天皇やわ。多氏は、もともとが金刺と名前を名乗ってましたわ。そして、8世紀の近江朝にたいする大海女の皇子がそのクーデターを起して、そして近江朝を倒しますわな。そして倒した時点で功績を認められて、金刺を返上して元の多氏に返ってまんね。それは、我々の配下やったんやね。という事は、各名代ナシロ、子代コシロを統括した家系やから、うちは。そやから、8世紀のときに大和の吉野に宮滝ていう所があるが、そこに隠棲しとったやつを、それを密かに旗揚げして、尾張の国に行って、尾張の国から連絡して諏訪の金刺が千騎の軍隊を率いてダーッと近江朝のどてっぱらを突いて壊滅するんですな。そのときに金刺ていうのがクーデターに荷担して天武天皇を擁立した訳です。それからね、うちらの家系はドーモ南北朝の時には南朝に荷担して、最後は南朝がおかしくなってしもうたけどね、浮かばれん事になってしもうたけど、昔から反骨精神がきついんですな。つくづくそう思いますわ。最初は成功したんやわ、最後はあかんな、南朝に荷担したから。そりゃまあ熊野もズーット南朝に荷担したからな、うちらかてしゃーないわな。南朝は、楠木正成ですな。これは河内の赤坂村いうてね、これ日本にかて12階級ありまんねけどな、色々と階級が。その底辺の2番目の宿シュクていう民族や。そやから河内の赤坂村は地区になってますよ。そういう民族やから、そやから無官の太夫いうて朝廷から何の位も貰わんと、あそこで豪族しとりましたんでね。宿の大将で。ただこの人は非常に人民を手懐けるのうまかってね、河内の百姓連中が、その田植えどきに水がなくなってきたら、楠木勢が50騎ほどが大和川の取り入れ口に陣場って、河内に水全部流すまで、北へ水流ささなんだんやな。だから楠木連が非常に住民に慕われとったんです。そして、土地から米はひとつも取らなんだんが、楠木正成のえらいとこや。丹波へ行ってね、公家の領地からドットとね、稲の刈入れどきになったらね、部隊組んで稲刈ってね、現物を丹波から持って帰ってきたんですわ。そしたら公家がね、六波羅へ言うてね、又河内の鼠賊がきてこういうことになったんや、何とかならんか、いうたって河内の鼠賊にはどうにも手が付けようがない,いうて六波羅もまいったていうとるわな。賢いねん、そやから金剛山に駆け登った正成がね、山の天辺に居って、いま足利軍が何をしとるか分ったいうのやな。しょんべんに行った時刻まで言うて来るいうのやな、それだけ住民に慕われとって、住民がこぞって<サイソク>いうてスパイをするわけだ。山の天辺に居って、軍のいごき皆わかるんよ、それは河内の人間を手懐けとったから。二千人で、十万を引き受けたいうけどね、これは土地の協力あってからこそやね。大和の方から、二上山に岡本氏というのが居って、これが楠木方ですわ。ハヤタにはウマミというところに豪族が居ってこれも楠木系、五条には和田氏いうて楠木の全くの家来で和田氏いうのが居った。それでその三里ほど後ろに貝名生(アノウ)というところに天皇がおった。北畠親房が神皇正統記を著したところや。そういう連携でもって、大和の方から兵糧をドンドコドンドコ上げるんや、河内の土地は皆全部がスパイやから、身動きとれんのや、今何処が動いた、小便しに行った事までみな楠木がみなわかとったんや。そして、河内の二上山を越えて一騎も入れなんだいうのは、二上山のところに岡本氏、馬見ウマメ氏こんなんが頑張っとるさかいにでけへんのや、みんなスパイみたいな奴ばっかりようけ飼うとるから、楠木は賢こかったんやね、二千人で十万の人間引き受けた、そやない、みんなの協力もあった、水にいたるまでね。下から。特急な場合は、竹筒に水入れて持って上がったちゅうんだもん、大和の五条から。人海戦術で。よじ登っていかな、敵の居るようなところ持っていかれへんさかい。だから、昔の南北朝の時代はそういうおかしな時代だったんやね、そんな時代に我々は南朝方についたんで、ひとつもコワイコトなかったんやね。そやけどおもしろいのにね、南北朝が終わってね、紀州の海賊 塩崎氏がね、熊野神社に寄進するからいうてね、兵庫の西宮の沖に陣場って、通る船の通行税全部取ったの。瀬戸内から入ってくる奴、入る奴の通行税を。それが高師直の許可証でやっとんの。西宮に根拠を置いて、西宮ていうえべっさんで有名な。兵庫県の。あそこに紀州の海賊どもが出張っとったんです。南北朝が終わってからでも。だからあの当時合戦いうても悠長なもんでしたんやな、昨日まで牙剥いて高師直つまり、北朝がたに刃向こうとった人間が、こんどは兵庫で通行料取るさかいに許可せい、てなこと言いに来るてな、それは偏に川端家の文字があったからだっせ。朝廷に直接ものを言える人やからね、多分そやからと思います。まあ、上古はそんなんでまあ天皇家の云々てなことになっとるけど、神武天皇説はこれは嘘でんな。これはもう、おきながしからこっち来とると、息永氏オキナガシ即ち億富オフですもんね。
あの先祖は、六世紀に東出雲からズーット出雲全般を押さえてしもたんやからね。しかしおかしいもんね、天皇家が要するに5世紀に蘇我氏がそこへ入って、出雲へ入って西の出雲を押さえましたわな。
あそこに蘇我川という川があるくらいやからね。にもかかわらず。六世紀になったら出雲全部を太氏が統括するんです。そしてあそこの、熊野神社を紀州の方に直接塩屋村に熊野神社を持ってきたんやけどね。持って来てそれから新宮へ移したんやけどね。これは奈良時代の古文書に、新宮の速玉ハヤタマ神社の古文書にそれが出てます、うちの村から速玉神社のご神体を持って出たいうて。出雲族の根拠地でしたんですけどね、日高郡で塩ヤ村ていうところは。村の人は全然そんな事は知りませんよ、これ文献読んでみて分ってきたんやから。ただこの前祭りに帰って今いう発見したんは、四神ね、これが矛ホコの根っこにみな付いとる、それを皆こう捧げてね、捧げつつみたいに持っとる、でその前に何とかいう傘を持ってあるいとる、それからその、四神の後ろに縄のすだれみたいに、それを星の形にして持ってあるいとる。古墳を暴いてこそ、初めてあんな四神があったてこと分るけど、わたしとこらの村にそんな古墳を暴きにいって、しったもんは居れへんわな。やっぱりこれ息永氏オキナガシの系統でオキナガシにはこれ絵描きの集団がありましてね、立派な、この集団が絵を描いたんやと思いますね、あそこへ。高松塚と黒塚と。それのおんなし光景がうちの村にあるんやから、やっぱり相当な、天皇家に準ずる権力者やったんやね。四神を持って歩くいうことは、これ王家のシンボルやからね。村の人が見たってわからへん。なんとかええ文面にしてもろうて、村の有力者にくばらないかん。わかれ、言うて。特に、その今の祭りの行列の御神輿さんの後ろから付いて行くそれやなんかを。区長に勉強するように。いかに出雲系のね、影響がきついかいう事と、日高にこんだけ出雲の名前があるところがある、という事と。
親類に、浜端ハマバタという親類があるんです、川端を名のらさんと、浜端と名乗らしたんです。幕末に。その親類の浜端が、紀州の藩の船に乗ってね、航行しとってね、嵐におうて、土佐沖で沈没するんですわ。その時にアメリカの捕鯨船に助けられて、江戸まで連れて行かれるんや、わざわざ紀州まで寄ってくれんわね。彼らは、鯨を追って行ってるやつやから。そして小笠原の沖行くのに来たんでしょうな、土佐沖で拾い上げられて、それで横須賀まで連れて行ってくれるんですわ。で横須賀で、ポンとほり下されたんや、難破しておかしな格好しておろおろやったさかい、一辺は奉行所にいかないかんさかい行って、私はしかじかこうこうで、要するに紀州家の船の船頭をしとってこうなってこうなった、と言うたらしいわ。それやったら、言うて紀州家に名前聞いてびっくりしてしもうてね、豚箱やなしに、揚屋言うところへ放り込まれるんですわ。揚屋いうたら畳敷いてくれてますんや、これは武家でないとそう言うところへ座られへんのや、一介の百姓は揚屋へ入れしまへんのや。まあ、士分として扱ってくれてますんやな。もっとも士分やったから。中に入ったら、チョンマゲ結うた奴じゃなしに、オールバックみたいにしとるやつが日本人が一人居るんやと。色々聞いたらそれがジョン万次郎だったんよ。ジョン万次郎がアメリカから帰ってきてすぐに入れられんもんで同じ揚屋に放りこまれて、10日ほどジョン万次郎と一緒におってね、難しい事聞いたって、チンプンカンプンで、汽車の話や汽船の話や聞いたってわからなんだ、いうことを述懐してますわ。ジョン万次郎と一緒に居った。これ記録にのこっとる。東大の宮脇さんて言う先生が、うちの村の葉山と言う家の古文書引っ張り出してん。これ何を隠そう、葉山がこれ目付けの家だったんですわ。葉山は船関係の情報取るために、そういう書類を残したんですね。
うちのおじいさんがね、まだ若い二十歳までのときに、横須賀村で薩摩藩がイギリス人を切りましたやろ、生麦事件、そこで事件と遭遇しとったんよ。それを藩に報告したんよ、しかじかと、そら大変やいうて紀州家が顔色変えたちゅうんやな。英国人をきったいう事で。したら今度は、紀州の何やら目付けが来て、はよ紀州へ帰れ、帰って紀州へ報告せ、いうて。藩に報告せないかんから。そういう事件もあったいう事、古文書に出てますわ。わしのおじいさんが生麦事件に遭遇したいうて。
<僕は、学生時代に鹿児島出身の海江田さんというある塗料会社の社長さんから、奨学金を貰っていたんですが、その人の祖父(海江田信義)が、生麦事件でイギリス人を切った藩士のうちの一人なんですよ。それから、その本人には兄弟が何人かいて、もう一人はあの桜田門外の変で伊井直弼を切った水戸藩の藩士の中に一人だけ薩摩藩の藩士がいたでしょう、そう、有村治左衛門、これも海江田さんの先祖で、兄弟が皆血の気の多い人だったらしいです。海江田さんと私は、奨学金でお世話になってその後30年ほどお付き合いしたのですが、ここで川端さんの祖先と縁がつながりましたね。幕末に生麦で出会ってたかもしれませんね。>
そやね、生麦村でうろうろしとって、そんな事件に遭遇して、肝をつぶして藩邸で、報告したんやな、イギリス人を切ったちゅうて。それがわしのお爺さん。親父が栄三郎で、お爺さんが善三で、お爺さんや。それで、面白い事に、わしのお婆さんがね、昭和十年に84で死んだんですがね、このお婆さんがわしに言うには、末光、こういう事があったんやね。あの昭和十年、お婆さんが死ぬちょっと前にね、大阪の第4師団管下でね、師団長が李王根リオウコン殿下やったんや、そして京都16師団の師団長が確か東伏見の宮さんやと思いまんのや、それが秋季演習で御坊を中心に敵前上陸の演習をしたときにね、東伏見の宮と李王根が、村へ来るという事で村中大騒ぎで、あの葉山いうて前にいうてたあの目付けが居るんですが、この目付けは、水主(カコ)いうて船の240人の目付けやっとるもんやから、船のええ情報が得られるんです、海外の情報も含め。つまり紀州藩でも密貿易は、やってましたんや。藩の力で。瀬戸内に、紀州藩の三つ葉葵の武門の立ったところ沢山ある、播州の赤穂もそうやし下関も、門司もそうやしね、九州では細島ホソシマこれもそうやしね、これみな紀州藩の根拠地があったんです。そんなんでズーと廻ってね新潟県の柏崎まで紀州藩の根拠地全部つくっとったんです。太平洋は横須賀まで。名古屋の尾張藩があるにもかかわらず、横須賀まで紀州藩が押さえとったんです。海路を塞ぐために、あんな喧嘩して徹底的に尾張を押さえたんですわ。一人も将軍に出さんちゅうことで。紀州藩が尾張を押さえたんは海路を確保するためや、とおもいますな。われらの、前通っていくんやからね、ほれでしかも、方々へ根拠地を置くもんやから、伊勢音頭が頻りに流行るんですわ。
いかに、紀州藩ちゅうのは徹底しとったか、いう事ですね。隠密政策とか、情報網ですね。行ったとこ行ったとこで、情報網の根拠地つくる。それであの蝦夷地まで行ってますわ。あのね、8代将軍の吉宗が入ってからね、江戸の材木商の総取り締まりも、紀州から行ってますんや。これが蝦夷地まで行ってます、支店を出して。これ皆情報集めです。各地に。だから、日本国中に紀州藩は情報網もっとたんと違いますか。将軍家2人もつづいて三人も出そうかちゅう藩だけにね。そやから、紀州の領民は手も足もでなんだ、ひとつの村に3人ぐらい放り込まれたから。うちらの村やったら船の方と、陸地の百姓、商人を見る奴らとか。ひとつの村に三人も目付け入っとるんやもんね。そらもう暗黒政治ですな、スパイ政治で。可愛そうなもんですな、ただ救われたんはね。船乗りいうのは非常に大事に扱こうてくれたんですわ。一朝有事の際は戦闘要員やからね。こらもう、5石2人扶ち、240人に5石2人扶ちをずっと続いたんやね。5石2人扶ちいうたらね最低の生活できるんですわ、にもかかわらず、国ではね、嫁はんとか子供が仕事しまっしゃろ。
網引いたりなにしたり、それで亭主が5石2人扶ちくれとんやから、まあとにかく非常にその楽させてもろうたんやね、うちらの村は。
そういう事やから、出稼ぎは無かった。亭主がみな水主(かこ)で出とるから。ひとつの村で、53軒家があった中で、47人まで水主やもん。では、あと何しとったかいうたら、神主、坊主、庄屋、庄屋の補佐しとった歩き。とれも当然家1軒もっとたら4軒でしょう。あと後家の家かなんか知らんけど、だから全村が5石2人扶ちのあれでしたんや。結局塩屋村いうて、南塩屋、北塩屋の2村が集まって、北塩屋が47人の、南塩屋が53人やから110人ですか、100人か。これが全部5石2人扶ちもろとった。全部がそうです、士分として。川を渡った和田村と言うところに、80人居りましたんや、これは全部士分の格をもろうてやっとったから、それの面倒をうちが見とったんですわ、お水主として。役料45石、船の通行料、漁師の上がり、諸々。田舎でね、郡奉行というのが40石もろとったんですわ。それの上で200石になんなんとするもん貰ういうたら、普通じゃなかった筈ですわ。本藩でも200石いうたらかなり煩ウルサかったんやからね、そりゃうんともろとる奴は、万石からもろとるけどね。あの、お船奉行いうのはね、殿さんに物言うとき間アイダの取次ぎなしで即ものを言えるという立場の人でしたんや。それはちゃんと書いてますわ、藩の組織の中に。命令は即殿さんから来る、殿さんに報告は、間に人を入れるな、側用人なんか関係無い、そやから8代将軍吉宗の一番最初のときに、和田村というところへ来て、お父さんの光貞が吉宗連れて視察に来ますわね、和田村はうちの船の根拠地でしたもんで、多分うちの先祖も吉宗におうとると思うんやわ。で、5代前の善吾兵衛ゼンゴベイていう人が有名な事に、江戸から役者を連れて村で興行さしてまんね。江戸から役者一団を連れてくるいう事はね、何ぞの改革で、あれ、役者が商売出来なんだ事があったとおもうんや。帰りの船は空でしょ、行きしなは米を積んだり何したりして、藩に用事をして。そして帰りに役者を連れて村へ来てね、そして、まともに町へ上げたら悪いんでね、裏からね、うちの村へ役者を上げてね、村中総出で1週間興業を打ったいうてこれ有名な話や、善吾兵衛が役者を呼んできたいうて。それは今から200年前の、文化文政時分に善吾兵衛さんがそれをやったらしいわ。これいまでも村に語り草になっとる、あの当時役者なんてそんなもん連れ歩くてなこと、絶対できなんだ、それ出来たいうの偉いなおもうて。そやから村役人なんか絶対に寄せ付けなんだんやな、と思いますな。この日高川の私のところの村に入ってくるのにズート竹矢来を張り巡らしとったそうですわ。それで関所みたいにしてね、入ってくる奴は身元証明なかったら入れんちゅうな式でね、何かうちの村はね、きつかったらしい、入ってくるのに。なんかね。そらお婆さんの話や。お婆さんが先に言いかけたような大演習のときにね、わしの本家のいとこがね、ばあちゃん明日は、絶対に街道へ出てこんといてよ。なんで出たら悪いんやて、お婆さん言いよったんや、偉い人が来るんや、そしたらその時なに言うかいうたらね、偉い人てなにか、道歩いて悪いちゅうんやったら、紀州さんより偉い人がくるんか、いうたわ。そのとき子供心にね、なんと紀州さんしっとる人やなおもうた。紀州さんより偉い人か言うて聞いたんで。お婆さんの子供の時分に、南塩屋の家の前が、おなり街道やね、そしてね子供の時分に一辺殿さんの行列見たいわ思うてね障子に穴あけてこないして見るらしいわ。そしたらね、お駕籠の先が金ぴかでね、こいつにお日さんが当たってピカーとしてね、目が開いとられへんでね、なんべんしてもお殿さんの顔見られへんかった、いうてうちのお婆さん言うとった。お婆さんが大名行列しっとるちゅう、そのお婆さんと私との話にね、今わたしのとこに、この位の壷残っとんね、あの黒い。お婆さんこれいつ時分からあるんや、いうたらね、16で嫁にきたんやね、天保生まれで、わしが嫁に来たときゼンゴベさんがおってな、ゼンゴベさんに聞いたらな、わしが子供の頃これあったよ、いうたらしいな。ゼンゴベさんは、元禄よりちょっと下った時分に生まれたんやな。その人のお爺さんの代からあったていうんだったらこれ江戸よりまだ古いんやわ。生きた人に生に聞いたらそういう話や、5代前のゼンゴベさんがまだ生きとってその人に聞いたら、これは昔からあったんや、と。ゼンゴベさんのお爺さんがやな、おじいに聞いたらこなもん、昔からあるんや、という事になったら天正のもっと昔になるんや。あれは、北朝鮮の会寧(カイネイ)の壷です。そんなんがね、傳世品でうちにあるんやから。いま大和の五条へ持って帰っとるけどね。わしの自宅においてますわね、あれ北鮮の会寧の壷。伝世品。伊賀の壷。これは、柱立てるの掘るときに、出てきた壷やけど、本家が潰れたときにわしが持って来たんや、訳のわからん人がもってると散逸するさかい、皆持って帰った。わたしがやっていかなしょうがないから。
<<息永氏オキナガシに越の国から嫁に来て、これが旧の天皇家の筋やったわ、そして出来た子供が継体天皇、継体天皇の子供が欽明天皇>>