石碑

仁井田好古石碑 撰文

仁井田好古の撰文による石碑 塩屋王子神社

この石碑は、江戸時代の紀州藩儒学者である仁井田好古(こうこ)の撰文によるもので、正式には「塩屋王子祠前碑」(しおやおうじしぜんひ)と呼びます。石碑が建立されたのは、天保6年( 1835年 ) 明治維新が起こる33年前のことです。仁井田好古(1770~1848)は、紀伊国海部郡加太浦(現在の和歌山市加太)に生まれのち和歌山藩へ儒者として出任した。藩命により『紀伊続風土記』の編さんにあたり、天保10年(1829)に全192巻を完成させた。この『紀伊続風土記』編さんの関係事業として、好古の撰文によって史跡および伝承地の顕彰碑が藩内に24箇所に建てられたのです。これらの碑は歴史顕彰事業の先駆的存在として、また和歌山藩の学術文化施策の一端を示すものとして重要な資料であります。
さて石碑の出来た経緯についてですが、『紀伊続風土記』編さん人の一人本居大平(もとおりおおひら)の門人の塩崎氏が、王子神社の御徳を、世の中の人々に知らせたいと仁井田総裁に願い出ました、総裁は快く撰文を草稿し、部下の編纂人、勝本瀧右衛門に草稿を塩屋まで持たせ石面に写し取るよう命じました。この勝本という御仁は学者ではなく武士のようですが、絵が上手で紀伊風土紀の地図を担当していました、勿論書の方も達人で他人の文字を石面にそっくり写しだしました。
石碑の石は地元の漁師さんが塩屋沖で魚網に引っ掛け採取したのを使用、これに勝本師が45日かけて写し取ったと言い伝えられています。

かけまくも かしこき神の 古しへを
                       幾万代に 残すいしふみ  
勝本1
勝本師はこの詩を添えて、仁井田好古師の撰文を神社に捧げ帰られました。
仁井田総裁直筆の撰文は現在も残存し、和歌山県立博物館に収蔵されています。

 

 

 

碑文 (現在文訳 広野雅昭氏)

塩屋王子祠前碑 仁井田好古
塩屋村は日高川の流れが海に入るあたりにある。昔は製塩を仕事にしていた。塩屋という地名の起こりである。現在、村は南北に分けられている。そのうち 北塩屋は、東は小高い山々に続き、西は日高川に臨んでいる。その山に向かって数十段の石段を登ると上は平らになっていて樹木が 薄暗く茂っている。そこに神社がある。塩屋王子と称している。また、美人王子ともいわれている。美人という呼び名は昔の記録には見えない。その起源は分からない。
山の上に社がある。そこからは周りの風景を遠望することができる。それで昔(平安時代)帝が熊野に行幸する時には必ず休憩所になっていた。白河法皇の行幸の時、お供の公卿(くげ)たちに命じて神前に歌会を開かせている。また 建仁元年(1201年)後鳥羽帝行幸の時の記録「御幸記」(藤原定家筆)に「ここもまた景色の優れた所だ」と書かれているのはここを指しているのである。それ以後 弘安4年(1281年)に至るまで数人の帝が行幸している。元弘の乱(1335年)のおり大塔宮(護良親王・もりよししんのう)が難を避けて熊野に落ち延びた時もここに宿泊している。そうすると昔帝たちが熊野に行幸したときに宿泊した建物がまだ残っていたのである。現在それらの建物はすべて無くなり草木がびっしりと茂った中にその遺跡だけが残っている。土地の人はそこを「御所の芝」と呼んでいる。芝とはしめ縄を張った所という意味である。
塩屋王子の地形は東はうねうねと続く山々に連なり、西は海岸に臨んでいて、淡路,阿波の山々が広々とした碧海の彼方にかすんで見える。その北は幾つもの山々が重なり合って半円を描くように空にそびえ、くねりながら西に走っている。それに囲まれるように一大海湾が鏡を開いたように輝いている。
以上が昔の地形である。その後数百年の長い間に海は土砂に埋まり、日高川の流れも移り広い入り江は数里にわたる肥大な平野となり、そこには村落が密集し、区分された田地が遠くまで広々とかすんでいる。海岸には翠の松林が眉墨を掃いたように数里も続く姿は四季を通じて、えもいえぬ眺めである。花の朝、月の夕の美景は千年前と同じである。これこそ群中の別世界と言えよう。
この世に生きる人を見てみるに老人と若者では考え方も違うし身分の上下によって趣味も別々である。ものの見方もみな同じであるはずがない。この岡に登ってかつてここを訪れた数帝が楽しみ遊び一王(大塔宮・護良親王)が恐れ隠れた後が今なお残っているのを見ていると心の底から深い感動が湧き上がってくるのを抑えることができない。
ある人は帝たちが風光を賞(め)で楽しんだ様子を追想し、自分もわれを忘れて心ゆくまで楽しみ、詩を朗読したり 口ずさんだりして帰るのを忘れてしまうだろうか。ある人は不運だった親王の遺跡を弔い、その威厳のある姿と激しい気迫に打たれて涙を流しむせび泣いてもなお収まらないほどに感動するだろうか。またある人は過ぎ去った長い歴史を見通しさまざまの出来事を見渡してどんな大異変に対しても心を奪われることなく、また様々の悲喜劇にも動揺せず悠々として世俗を超えた境地に心を遊ばせようとするだろうか。
ここに私は碑を建て文を掘ったが、後世この文を丁寧に読んだ人はこの三つのどれかに納得してくれるだろう。

天保六年(1835年)乙未夏五月          仁井田好古 模一甫

 

三尾功先生講演会内容

 平成22年11月13日 第22回塩屋文化祭歴史講座

第二十二回塩屋文化祭 歴史講座
講演会「塩屋王子祠前碑をめぐって」
講師 三尾功先生
日時 平成22年(2010)11月13日(日)
場所 塩屋小学校

私は、 この塩屋王子の碑について、 あまり詳しく調べたことはないんですが、 今から30年ほど前にちょっとこの碑について、 疑問が出てきまして、 それをずっと自分の心の中であたためてきたわけです。 今日、 この塩屋の地にこさせていただきまして、 塩屋王子祠前碑が前見たときも大変傷んでいました。 これはもう剥落してしまって字も読めなくなるんじゃなかろうかと、 今から30年程前にそういうことを感じました。 ところが、 今回その修理が完成をして、これからのち、また、今までだいたいl75年程経っていると思いますけれども、 今後またこれ以上の年月を残していかれると地元の方たちの熱意というか、 この地で再び日の目を見るといいますか今後残していかれると受け継いでいかれるということに対して、 非常にありがたく、 歴史を研究してるものにとりましても、 地元の方々にとりましても、 あとに続くものたちに残す非常にいい遺産を残していただいたことに対して、 非常にうれしく思っております。
私は、今、ご紹介ありましたように、元々は中学校の教師でだぃたぃ17年間つとめまして、そのあと、3年間程高校にいてました。そのあと、 市の教育委員会の方にまいりまして、学校教育課の方で 「和歌山市史」 という和歌山市の歴史を編集する事業に従事するようにということで、そちらの方へ籍を置いて、約10数年間つとめたわけです。だから、大勢の大学の先生にお願いしまして.市史をつくりました。全10巻の市史をつくりましたけれど, 約1万ページに及ぶような大作でして、10数年かかってやったんです。子算がだいたい1 億 3 千万だったと思いますけれども、 大変な事業であって、 その中で自分がいったい何ができるかということで、 先生方がやられないところを自分が書かなければ仕方がないのでそこをやりました。だから、 主とした研究としては、 和歌山城、 それから和歌山城のまわりにあります城下町、 そういうことの研究をずっと続けておったわけです。 そのときに、だいたい編集室というのは、市の職員が3名ほどでして、残り7名ほどの方は、退職された校長先生、 大学院の学生が3、4人おりました。そういつた方々で歴史の本をまとめていくわけですから、 どうしてもみんながその各自ひろく文書を読まなければいけないだろうということで、 自分たちで勉強会をやったわけです。 勉強会をやっていく中で、 そのテキストに使った本があるわけです。これがそのコピーなんですけれども、「滑稽秋の空」という全部で48ページぐらいの小さな本なんですけども、 これをテキストにしてみんなで時間をみつけては、 読む構古をしたわけです。 これはどんな本かといいますと、 一人の男が日高の方に用事があって、 北塩屋に来て、 碑の文章を書き写したということを書いているわ けです。 その碑の文章を作ったのは、 仁井田好古と言います。 これはのちほどまた話をいたしますけども、 その当時の紀州では一番の儒学者であったわけです。儒学の先生ですね。 藩主に対して儒学を教えるような先生であったわけです。 その先生が20人ほどの学者を動員しまして、 作つたんですけども、 その仁井田好古があの碑の文章を考え、 そして書いたと書いてあるんですけども、 どうもそうではなさそうです。 別の人がきてね、 書いてる。 それが非常にこう疑問に思ったわけです。 それがきっかけで今からもう30年になりますけども、塩屋に来てあの碑をじっくりと眺めまして、字を見てもなかなかわからない。しかし、 写真に一応しまして、 文字を読み取って、 だいぶ読みにくいなあということをそのとき感じておったわけですけども、 20 年近くそれが自分の心の中にひっかかってあって、 一 体誰が仁井田好古という学者の変わりに来てね、 あの碑に字を書いたんだろうか?そういうことにいつまでもこう気にかかっておったわけです。 ところが、 今から5、 6年前でしたでしょうか、 朝日新聞に記事が出ました。 わが町の自慢の碑などについての連載ものだったんですね。 その中に、 須佐神社の廣野先生が書かれておりましてね、 その碑文の元になるような掛軸が出てきたということも書かれていた。 そこで早速廣野先生にお手紙を書いて、 その軸を是非ともみたいものだということをお知らせしたわけです。 そして、 しばらくたちましたときに、 細谷さんが県立博物館にお仕事に来られておりまして、 その碑文と仁井田好古の書かれた軸の写真を持つてきていただいた。 それで、 だいたいその碑というのはどうしてできたのかとぃうことがだぃたぃわかってきはじめた。 そんな事情で、 この塩屋王子の碑について自分も納得できるところまで、 だいたい考え方が進んできてあるんですけども、 やはり、 地元の方々が非常に熱心にあの碑について、 考えておられることそのことについて、 感心をいたしました。今日は、塩屋王子の前の碑というものが、 どういう事情の中で作られてのかということについてお語しをしていきたいと思いますが、 お手元に私のレジュメといいまして. だいたい話の内容のおもなところを書いた 1 枚の紙をつけています。そのあとから7ページまでの分にっきましては、お話していく中で、できるだけわかりやすいように元の資料を出しました。 難しい字をそのまま入れてありますが、そこはもう読んでいかなくても結構です。 それを書き直した文章も入れておりますので、それをご覧になっていただいたらと恩います。 そして、 この碑というものが、 県下にだぃたぃ16ぐらい同じような碑があるんですけれども、 同じ時代にだいたい作られたものがあるんですけれども、 ここの碑ぐらいはっきりとした証拠といいますか、 どのような経過でこの碑がたてられたかわかる碑というのは他にはないと思います。 その証拠になるべき、掛軸もでてきておるし、 もうこれくらい経過がはっきり誰がここに来て何月何日から何月何日まで逗留をして、 その文字を書いて、 それから碑を作ったというのがある。 はっきりとわかるようなんです。 それはもう珍しいことなんです。 よそのどの碑をみても、 それはもうないことなんです。 だから、 あの軸とともにあの碑というものをこれからの時代に口口ていただきたいし、 碑の中に一体何を書いてあるのかあの時代に 175 年前の方が一体何を今の人に残していたのか。そういうことがこの碑文の中に出ております。 それは、「碑の謂」 というこの資料の中に現代文に訳したものが出ておりますのでそれを読んでいただければ、 だぃたぃこんなもの書いておるなということがよくおわかりになるだとうと思います。 今日は、 そういう碑がなぜたてられてきたのかという事情についてお話をしていきたいと思います。
まず、 最初に研究のきっかけはそういうことで始まったわけですけども、 わずか 1 冊のごく短いその紀行文といいますね、 旅をしたという旅日記です。 絵を入れて、 非常にこう楽しく書いておる絵なんです。 今日のお配りした資料の中にもこういう面白い絵がいっばい出てきますから。 これは、 そこへ字を書きにきた本人の姿なんです。 そういう姿の絵をいっばいこの中に入れてあります。 いかに絵が上手であったか、 そして人柄が非常によくわかるような自画像がたくさんでてきまいります。 非常に面白い文章だったんですが、 字はそこに入れておりますように非常に難しい字なんで、 読むのに難儀いたしました。だから、その当時読んだものを細谷さんなんかが、 こう色々考えられましたけども、 私はそのときにはまだ「塩崎」 という姓と「塩路」 という姓が2つ非常に紛らわしく出てくるんですね、この資料の中に。それが、まだはっきりしてなかった。だから、非常なる誤解を与えてきたと思うんです。 今日は、 だぃたぃ何故僕がその読み方を間違えたのかということもお話をしたいと思いますけども、 「塩路」 「塩崎」 姓というのは非常にややこしいですけども別人なんですね。 それがはっきり出てくると。
まず最初、 この事業がどうしてこう始まったのかということ 『紀伊続風土記』 という本があります。 これは、 全部で l92巻という非常に大作の紀伊の国それから昔その紀州器の領内であった伊勢の方の三重県の一部ですね、 熊野の方ですが、 それを含んだ各村々の事柄を詳しく書いたそれを集めてある本なんです。 それを見れば、 北塩屋村という村は、 人口が何人あって、 家数がいくつあって、 そこの地形はどぅぃう地形であって、 どぅぃうものを産業にしておるか、 そこには史跡、 名勝というのはどんなものがあるか、 あるいは旧家にはどんな家があるかそういうような非常に細かい事を書いてある。 こんな細かい事業というのはなかなか難しいですね。 ところがそこの土地を治めていく殿さんにとっては、 その土地の様子を知るためにそういうことはきちっと知つておかなければいけない。 人間どれだけ住んでるか、 米どれだけとれるかとか、 そこはどんな地形であろうかとか、 物産は何があるだろうかとか、 知らないかんわけです。 非常に知りたいんです。 そういうものを知りたいんだけれども、 なかなかそういうものを調べるのは大変なんです。 先ほど、 和歌山市史が1億数千万円かけたと言いましたけど、 それくらい金のかかることなんですね、人力もいるし、 時間もかかるし、 だから個人でそういうことをやろうと考えた人はたくさんあります。和歌山でも江戸時代のはじめからね、 『紀州史略』だとか、 南紀なんとかいうようないろんな本がいつばぃ出てあります。 しかし、 非常に不充分。 ある一部の地域だけしかやってないとかね。 ところが、 それを自分の治めておる土地全体に及ぼして調べるというのは大変なんですね。 それをなぜ紀州港が江戸の終わりごろにやりはじめたかというのは、それは、 レジュメに書いておきましたように、「幕府之布命ニヨリテ」、徳川幕府の方から命令をされたから作ろうということなんです。 紀州藩の考えではないんですね、 幕府の布命とぃうのはどういうものであったか、 これは、内命、各藩に一斉にこういう本を作れといって、 上から命令として、 法令として出したものではないんです。 各藩ごとにお前の藩はこういう本を作りなさい、お前のところはこういうのを作りなさい、といってね。 内容は-緒なんですけど。そういう命令を出したのが、1803年、享和3年という年、幕府の方が命令を出したんです。それには 一体どういうことが書いてあるかというと、 領内の事柄について、 いろんな事、 人口や面積やなんかを含めてその土地の様子がよくわかるように書けということですが、本文は「漢字仮名交じり文」で,等け。だいたいこういうことをやるのは、 儒学者ですね。 儒学をやる人は漢学の優れた学者がやるんですね。 だから、漢文で書いてあるのが多いんです。 それでは、 なかなかみんなが理解しがたぃとぃうことで、漢字仮名交じりの文章で書きなさいよということです。それから、2番目には、その当時にありました『筑前祠続風土記』という本、 これは、今の福岡県、黒田という殿様ですけども、黒田節に出てくる黒田ですけども、52万石のね、その黒田の領地の中で、『筑前国続風土記』 というのを作ってあるんです。 それを模範として、 作りなさいよ。ということです。 3番目に、 「絵図など図版を入れること」。 絵図など図版を入れるということになると、地図を書かないといけませんね。 それから中の内容がわかるようないろんな絵を入れるということです。そういうことを3つの大切な点として、こういう本にしなさいよということで一応各藩に命令を出したわけです。この当時、日本全国でだぃたい360ぐらい藩があります。紀州藩、尾張藩というように360ほどある。ところが実際に出した藩は、 こういう本を作り上げた藩は、僅かに18しかない。なんでだろうということなんですね。みんないう事聞かんわけですね。 各大名にとっては、 自分の領地の中のことは、 あまり外に出したくない。まして、幕府に知られたくないこともたくさんある。そして、実際にこのように絵図などを入れることになりますと、 国絵図というのを作らないといかん。 国の絵図を作らないといかん。 ところが、 国と国との境の問題がある。 国境については、 ほうぼうに争いがある。 今の日本と同じようなものです。 だから、 それをはっきりさすというのは、非常に難しいんです。 国だけではない、 各村の中でも村境 (ざかい) というものをどうするか。それから、石高なんかについても、 これはあまりはっきりと出したくないんですね。 自分の藩にどれだけお金が入ってくるかというようなことをね、 はっきりと出したくない。 だから、いう事を聞かないんです。いう事を聞いてやったのは、わずか18かそこらしかない。 その18の藩というのは、だいたい徳川家と関係のある藩に限られている。 御三家であるとか、 譜代大名であるとかね。 幕府と非常に仲のいい藩だけがこの命令に従って、 他の藩はとてもこんなもんようせんと。 財政的にもたんとかいつて、やらなかった。 紀州藩はそれを非常に忠実にやった。藩をあげてやった。ちょうどこのときは、将軍は11代目の家斉ですかね。非常に子どもの多い、子どもが54、5人あったというね、有名な殿さんですけどね。 紀州揺の方は、10代目の徳川治宝です。 文化文政時代といわれる、 江戸時代の平和な時代が長く続いて、日本全国の非常に文化の向上が、文化的な面が非常に盛んであったとき、学問が非常に重んじられた、そういう時代であったために、紀州藩では10代目の徳川治宝がその命令に従って編纂室を作ってね、事業をはじめていくわけです。 この紀州の徳川家、 しかもこの徳川治宝という人物というのはどういう人物であったのかということを知るために、資料の1ページ目をご覧ください。表が出てあります。これは、徳川将章家と紀州徳川家とそれからもう一つ西条松平家というのが書いてあります。 これは紀州藩の分家です。 だから、 徳川幕府は将軍家の血筋が絶えないように、 もし子どもがないときにはということで御三家というのを置きました。 子どもがないときには、 御三家から将章に入ることを 一応考えて御三家おいたんですね。 紀州家の方はどうかというと、 紀州家は、伊予の西条、今の愛媛県に西条市というのがある。 10月の中ほどに西条まつりというえらい大きな祭りがありますね。 ご覧になった方もあると思いますし、毎年、テレビで祭りの時期になると出てくる祭りです。小さなまちですけど、 まちの中から山車が100台くらい出てくる。 非常に一晩中といいますか町中が綺麗に飾つた山車で見事な祭りなんですけども、 特に最後に神社に神興を川向かいまで送っていく行事があるんです。 川の中で川を渡って帰ろうとする神興を山車たちが止めるという、壮大な祭りがあるんです。 そこのところなんです。 これは、 初代の紀州藩の藩主.であった頼宣という人の子ども男の子が2人ありまして、 一人は紀州藩の跡を継いで、二代目の光貞になる。 ところが, その光貞の弟に頼純という人があります。最初、紀州藩で居候しておったわけです。紀州藩で5万石をもらってね、 居候であった。 ところが、 幕府の方から分家が許されてね、 伊予の西条に3 万石の領地がある。御三家の子どもというのは、だいたい3方石の大名になるんです。決まりなんです。 吉宗も紀州藩の藩主の子どもでしたから、 福井県の方で3方石の領主になりましたね。 頼純という人が3万石の領地をもらって、 伊予の西条に行ったんです。 西条というのはわずか3万石ですけれども、今いってもわかりますけれども、水の非常に綺麗な、だからお洒がおいしいとか、 しかも紙漉き、西条の紙がある。わずか3万石といってもそれ以上の収入のある、割合いい藩なんです。金持ちの藩なんです。そこへ、分家を出したんです。分家を出して行つたんだけれど、紀州藩の方で5方石もらっておったものを3万石の大名にして、 分家したんだから紀州藩から2万を毎年石足してね、 5万石やっているんです。 だから、 西条藩と紀州藩というのは、 非常にこれからあとは親密な関係になっていきます。西条藩の藩主は、江戸定府(じょうふ)といって、江戸にしょっちゅうおります。 江戸の今の渋谷の近くに青山学院がありますけども渋谷の近くのところに西条藩の藩邸があって、 そこから 1 キロほど離れたところに紀州藩の赤坂の屋敷がある。 本家の紀州家よりも江戸にしょっちゅう出入りしていた。藩主がいないときにはいつでも遊びに来てますしね、 紀州藩の方もそこは親類だからといつて藩主がしょっちゅう遊びに来たり非常に仲がいい。 そういう関係の藩です。 その藩の頼純というのが新しく西条松平家を作っていった。紀州徳川家を見ていきまして、 第8代目のところで吉宗が将軍家へ入ったわけですね。7代目の家継が子どもがなかったために、 初めて御三家からということで吉宗が将章に入っていった。 これは大河ドラマで出てきましたね。 大河ドラマのときに、 私も時代考証の一人として入りまして、 東京に何回かいって撮影現場でいろんなことをやったわけですけども、その吉宗が入っていった。 ところが、吉宗という人はここからあと. 徳川将軍家は紀州家の血筋で継いでいく、 そう考えた。 だから、 吉宗は自分の子ども二人を田安家、一橋家いう2つの家を新しく作ったんです。 御三家みたいなものですIa。 それから、孫である人を清水家というのを作って、御三家に対して御三卿という家柄を作った。 これ、全部10万石ずつもらうんです。しかも住むのは、江戸城の中に住んでいるんです。だから、吉宗はわしのあとは御三家他のところは入れないぞというんですね。 紀州家が継いでいくんだと。 だから、 そのとおり、あとずっと二重丸をしてますけど、 これはみな紀州家の血筋をひいた将軍である。 考えてみれば、 徳川将軍家というのは紀州家なんです。 紀州家はどうかいうと、 吉宗が将軍家に入ったからあと西条の 2 代日の頼致というのが、 これが宗、直となって紀州家に入ってきたんです。 分家の方から養子をもらったんですね。 あと、 星印をずっとつけてますから、 これは全部西条家の血筋をひいた家柄なんです。 だから、 紀州家は分家の西条家の血筋が非常に濃いということなんですね。 伊予の西条の方はそれから後も紀州家へまた入ってきております。 ところが10代目の治宝のとき、治宝という人は、娘しかなかった。だから養子をとらないかん。普通だったら、西条家から入るんですよ。 その当時、 西条家は 8 代目の頼啓という人が治宝のあとを入ってくるべきだったんです。 ところが、 さきほど言いましたように将軍家斉には50何人かの-子どもがあって、 その養子先を採しておったんです。しかも将軍家と親類になる家柄ですから変なところへやれない。 だから、 御三家が全部引き受けなあかんことになった。 あるいは、 請代大名の中でも有名なところへ押し付けていった。 だから、 紀州も結局西条家から養子-を入れることはできなくて、 家斉の息子の斉順というのが入ってきたんです。 剤順が若くして亡くなりましたので、次にその弟が入ってきたんです。こうなってくると紀州藩というのは将軍家といかに深い関係にあるかというのがわかりますね。だから、明治維新のときでも最後まで紀州家は幕府につかなければならなかったんです。 それが、明治以後、紀州があまり発展をしない大きな理由になっていくわけですね。 維新政府の中で、 紀州の者は出世できなかった。 その中で唯 一出世したのは、 陸奥宗光ですね。 これは大河ドラマに出たとおりなんです。 陸奥宗光の父親というのは紀州藩の中で治宝のときに勘定奉行をやって、 しかも-、寺社奉行も兼ねて、 藩の財政あらゆる政治を 一人が握っ,た、 治宝の一番のお気に入りの人であった、父親はね。 治宝が亡くなった途端に将軍家から斉順が入ってきます。 すると、 治宝につかえていた家来が全部職を奪われたんです。 改易されたんです。 だから、 陸奥宗光のお父さんと陸奥宗光それから兄貴ですかね、 3人がほうぼうで流されるわけですね。 そこで、 とうとう伊達家というのが大阪へ出まして紀州藩を脱藩したわけですね。 その子どもの宗光が海援隊に入っていってね、坂本竜馬とか後藤象二郎とかそういう土佐藩とか長州藩そういう連中らとつきあったわけですね。 だから、あの人だけが維新政府の中で出世していくことができた。紀州というのは、そういうとこなんですね、だいたい。 脱藩したものが出世するんです。 松下幸之助もしかり。 あれは、脱藩ではありませんけどね。 この紀州から追い出されるように出ていって、 そこで出世をしていくと、 そういう人物が非常に多いですね。 だから、 陸奥宗光なんかも、 外務大臣なんかになってね、 非常に有名になってからは紀州に来ました。 それまでは、 紀州に対して恨み、 そういう気持ちを持っておった人なんですね。 こういうようなことが将軍家から御三家、 松平家、 そういうものの血筋を考えてみたらわかる。 紀州德川家は西条家の血筋を引いてきてる。 ところがこの西条家というのは、 江戸にずっと定府でおりましてね、 参動交代がないんです。だから、 向こうでおった歴代の西条家の藩主というのは、非常に学問好きの人が多いですね。 特に、 この治宝の時代には、 江戸で一番の学者である細井平洲という儒学者がおった。 その人の教えを藩主が受けたんです。 その殿さんが白分の子ども達も全部白分のはたに座らせて、 同じように勉強さしたんです。 細井平洲の考え方というのは、 幕府の朱子学とは違う。 朱子学から分かれたんですけど、 折衷派といつて、 あまり国学派とか陽明学派とかいろいろ儒学の中にそういうものにとらわれなくて、 とにかく実学といって、 実際に役立つような学問をしなければいけない。 それから、 知ったことは実行しなければいけない、そういう非常に実践的な学問なんですね。 それが紀州藩の中に入つてきてるんです。 学問的な素養を持った人がこの時代に非常に多い。 特にこの 9 代目の治貞という人は、 西条家から紀州家に入りました。これは、この時代にこの世の中に2つ優れたものがある。一つは、紀州の麒麟。それから、 もう一つが肥後の鳳凰。 何かというと、紀州の麒麟というのは、 この治貞なんです。 この人の政治のやり方が非常に素晴らしい、 紀州の麒麟と呼ばれた。 それから、 熊本の細川ですね。細川の人が鳳凰だと。 そのように、 全国でも有名な大名といいますかね、優れた大名だという評価をもった人なんです。 治宝というのは、 8代目の重倫の子どもなんです。 ところが、 8代目の重倫という人は非常に奔放な人でね。 気まぐれにいろんな悪い事をするんですよ。 『南紀徳川史』 という徳川家の歴史の本がありますけれども、 その中にも非常に悪く書かれているといいますかね、 逸話がいつぱい出てきます。 無茶苦茶な事をやって、 30年隠居をさせられた。幕府から怒られた。 ところが、 治宝はそのときまだ4つか5つなんですね。これはちょっと藩主にするのは、できない。ということで、西条家から治貞が入ってきた。 治貞という人は、 白分が紀州家に入ってくると、 自分の子どもを次の跡を藩主にするということをしない。 治貞はすぐ治宝を養子にしてね、 次の藩主はお前だということを先にポンと決めてしまう。わしは一代限り、ワンポイントのリリーフでやりますよ。 治宝がやがて、 治貞が亡くなったときは藩主になつていったんです。 治宝という人が、 西浜御殿をもとにしていろんな学問をやり、お茶もやり、 花もやり、 雅楽もやり、いろんな遊びの事は一切やってますがね、 そういう素養は全部、治貞なんかの影響を受けている、 西条の影響を受けた人なんです。 しかも、治宝は自分の跡を自分の子どもがない為に娘だけだった為に西条から養子をとろうとしたところが、それを幕府から拒まれたんです。 将軍の子どもが入ってきた。そこで、あまり面白くないんです。だから、隠居したあと、西浜御殿で20数年間、いろんなことをやったんですね。 隠然たる力を持っておって、 紀州の方では、 治室派と斉順の系統を受けた派、斉順の方には、 家老の水野がついておりました。それから、 治宝家の方には先程いった伊達がついておりました。そういうその2人の家臣を持って、 それぞれお互い心の中で快く思わない、 そういう中でずっとやってきておる。だから、治宝がいかに雅楽とかいろんなことにやったかというのは、 政治の方が面白くなくなってきたわけでしょうね、おそらく。 そういう方に力を入れたんだと思います。そういう時期に 紀伊国風土記』が作られるんですね。幕府から内命を受けて。 そこで、20人程の学者を集めまして、 紀州藩でその当時の学者で一番最高の人が仁井田好古。儒学ですね、 しかも折衷学派といって 細井平洲の流れをくむ学者です。 国学の方では、本居宣長の息子(養子)、大平というのがおりまして、同学のえらい人も2、3人、加納諸平とかね、 それからもう一つ、 物産の事を調べるために、 小原良直といいますが、本章学、今でいうと博物学ですね、動物、植物、そういったことの研究している学者を入れて、20人ほどの大学者の集団を作って、 そこで『紀伊続風土記』の編纂がはじまっていくわけです。この『紀伊続風土記』の編集というものは簡単に出来たわけではありません。これは、2ページの方に表を人れてますけども、『紀伊続風土記』編纂とそれにまつわる史跡の顕彰のために建てられた色々な碑の一覧表です。享和3年という年に、幕府から『風土記』を作れという命令を受けた。そして、一旦途中で文化12年に『風土記』の編纂事業が終わります。 これは、『紀伊続風土記』の編纂は藩にとっては、大きな仕事であったので、和歌山城の西の丸という元の市役所、 今駐中場になっているところにあそこにあった西の丸御殿があった、そこを事務所にして、仁井田好古を中心として始まった。ところが、文化12年に御用が中止になって、一旦閉鎖したんです。何故かというと、この年に大きな洪水があって領内に大きな被害を与えたんですね。 それから、 紀州藩の赤坂御殿が燃えたということもあります。だから、 財政的に非常に苦しくなった。一旦 編集事業を中止すると、 しかし、やがてそれをまた復活することがあるから、その資料は砂の丸の方に、今広場になっていますが、 砂の丸広場のところに役所がありまして、あそこは昔は建物が建っておったんです。 そこのところへ、 その資料を全部うつして 2 人だけを残してあとの人は全部御用替えになってね、一旦は中止されたんです。そして、今度は藩主が11代代青順に変わる。将軍家から息子が来た。息子が来たあと、今度は大保2年になって、また財政が復活してきたということで、御用再開して、風十_記の編纂が続いていって、 天保10年に出来上がった。そうして12年に幕府にそれを献上して事業が終わった。そういう経過で、途中1回かなり期間止まっているんですね。財政難などで。その間に仁井田好古が中心となって、今わかっているだけでそこにあげてあるように各部にありますが16のいろいろな名所旧跡のところに碑が建てられてある。 これは、よく藩の命令によって建つたんじゃなかろうかということなんです。仁井田好古が藩から命令を受けて、碑を作つたんじゃないかと言われています。ところが実際はそうではなさそうなんですね。 それをずーっと見てもらったらわかると思いますけど、上の方のはじめ頃はどうも天皇が紀州に来たときのことを残すために作ったような碑であります。 ところが、そうもいえないものもありますね。 湯崎の温泉に作ってあったり、 それから今の和歌山市の北側のところに六堰という大きな用水路を作った記念碑があったり、 それから暗渠を作ったという碑があったり、いろいろな碑があります。古墳のところに作った碑があったりね。 どうも藩が作る場合だったら基準を決めると思うんです。どういうところにどういう碑を残そうかという基準を決めて、順番に作っ,ていくと思うんです。どうもそうではなさそうなんです。ということは、結局、その土地土地の人達からの要望があって、 はじめて碑.を作つていったんだとぃうことが 一応想像されるわけですね。それを示す資料というのはほとんどないんです。藩からの命令というのは、 どうも碑のたて方をみていきますと、そうではなさそうだということだけはわかってきてある。 仁井田好古が全部文章を考えたり、それを書いたりした。それを元にして、碑をたてているということは、落款を見たらみなわかるんですね。
この仁井田好古という人は -体どんな人かといいますと、 これは和歌山の加太の百姓。 百姓であるけれども、仁井田という姓を名乗っていますね。 これはちょっとおかしいんですけどね、仁井田家の方では、うちの先祖は加大の人間ではない。もともとは伊子、瀬戸内海の沿岸、愛媛県の方の昔の水軍というのがありますね。 瀬戸水軍の子係である。 それが、 加太でやってきた。 うちは新田氏の系統である、 新田義貞という人がいましたね。 この新田の系統である。 だから、 仁井田という姓は、 新田から作った姓というんですね。 自分たちが学校で習ったときには、 百姓というのは姓はないんだ、 明治になってから姓をつけたというんですね。 確かにそうなんです。 ところが、田合の方であろうが、どこであろうが、 同じ名前の人がほうぼうにいてるんです。 だから、 たいがい昔はどこそこの誰それと言い方をしたんです。 例えば、雑賀孫一、あれは雑賀の孫一なんです。本当の姓は鈴木なんですね。鈴木孫一。そういうようにして、土地の名前なんかをつけて、姓を作っておった。だから、百姓に姓がないといいますけど、 これは公式にはないんです。 しかし、 白分たちの間では、 姓をつけて呼んでいるんです。 宮の下に住んでるから宮下という姓だ、 宮下の誰それと言い方をして、 書くときには宮下何それと書いておったんです。 しかし、藩へ出す,書類とかいろんなものは、姓は書けない。仁井田もおそらくそういうことだろうと思います。ところが、仁井田好古の父親というのも、 百姓はやっとったけれども、非常に学問のできる、それからソロバンが達者であったそうですね。非常に算数ができた。だから、藩の方へ雇われたんです。事務をするために雇われて、和歌山市内へ出たんです。そのときに、好古という子ども、これは、「にいだこうこ」とも「よしふる」ともいいますけども、模一郎という名前ですが、「仁井田好古(よしふる)」「よしふる」と言いますが、その人はわずか8才で、父親と一緒に和歌山城下へ出てきて、そこで漢学の勉強をしたんですね。ところが、不思議なことに仁井田好古がどんな先生についてね、勉強をしたかというのははっきりわからないんです。とにかく、ありとあらゆる漢学を自分が勉強をした。 独学に近い人なんです。
しかし、一番心をひかれたのは、細井平洲の考えておっ,た折衷学子学のように君臣の別をきちっとするとかとぃうようなああいううるさい決まりのことは言わない。 実際生活に役立つような学問でないと、 きちっとした人間として生きていく為の重要なことは一体何だろうかというようなことを言ってね、 そういうことを一番中心に考える割合こう融通の利く学問のことです。折衷学派と言います。それを勉強したんです。 だから、 この人の先生は誰かということは、はっきりとはいえない。学者が出てこない。普通、学者の系統を繁げていけるものなんですけども、それが繁がらない人なんです。 しかし、とにかくそういうことで学問の方で非常に優れておったために藩の学校の方の助手みたいな形でまず入りまして、それからだんだんと出世をして、最後は藩学、 藩の学校の口口といって一番えらい校長にまでなつていった。 そういう人物なんです。非常に独学の優れた人です。 その人が中心となって 『紀伊続風土記』 の編纂をやって、その人の時代にこれだけの碑ができている。 そのところまでは、有名な学者が書いたもんだなというところまではわかっていたんですが、 最初の方に戻りますけれども、この塩屋の碑というのは、碑の中で特別重要だと思われることは、先程もちょっと言いましたけれども、この碑がどのような経過でどうして建つたかということがわかる。それは、どういうことでわかったかというと、 その下にちょっと表紙を入れていますけれども、どこから出た史料かと言いますと、今、和歌山市の方で重要文化財の家を修復しました、中筋家といいます。昔の大庄屋です。その家にあった史料です。それを借りて、写真にし、コピーしてあったんです。その史料を先ほどいったように、 会でテキストに使って読んでいったんです。 非常に面白い文章です。 その文章を見たときに、塩屋の碑を仁井田好古が文章を作って書いたと碑面には書いてあるのに、 別の人が書いてあるなということがわかる。その書いたのが誰だろうかというのが僕の疑間であったわけです。誰が書いたのか。手がかりは何にもないんです。その中へ出てくる絵を見ますと、白画像らしい絵を見ますと、腰に刀を差しておってね、侍だということがわかる。ところが、表紙のこの字がわからないんです。最初の隅に書いてある名前「想誌堂のあるし 書」と書いてあり、判子2つ。「想誌堂」とは一体誰だろうかということで、 いろいろ調べたけれども、結局こういうことを言った人、 想誌堂というのは、だいたい昔の学者というのは、白分の家へ屋号といいますか、なんとか堂というような名前をつけて、額をあげたりしてあるんです。 文人はみなこんなことをやったんです。想誌堂という人物は出てこない、全然出てこない。 だから、 これは一体誰だろうかというのが、長い間の疑問であった。 ところが、それをよく調べていくうちに、どうもこの一番下に2つ判子を押してあるんですけれども、その判子が分からない、コピーであっても、写真をとっても、現物を見ても、なかなか読めなかった。そして、難儀してようやく上の判だけがわかったんです。 「勝本」 と書いてある。 「勝本」 という人物は、一体、仁井田好古の近辺におったか、出てきたんですね。仁井田好古は、20人ほどの学者を集めて一つのチームを作りました。 その中で、 地図を書く人として、 「勝本義隣」という人物が出てきます。だから、それに違いなかろう、 しかも、地図を書く、絵図を書く、ということになってくると、これはどうもこの絵の書き方を見ると、絵描きらしいということもわかってくる。 ところがこの人は、侍の名簿を見ても、江戸時代の侍の名簿を見ても出てこない。 だから、身分はたいしたことは無かったと思います。 全然出てこない。いまだにわからないです。その人の書いた文章が、 文字としてはこういうことです。 御家流とは違う、 御家流とは幕府の決めた字体ですので、あれは割合決まりにのっとって書いてあるので読みやすいですけど、 この人は文人ですから割合自由に書いてある。読むのが難しい。この人が書いた文章の中に、北塩屋のことを書いた部分があったわけです。これが、5ページにあります。 これを見ていきますとね、その時の事情がよくわかる。これをちょっと読みながら、この時の様子を見ていきたいと思います。大保6年間7月10日という年、今から175年程前になると思いますが、その年の問7月、昔は陰歴ですから、太陰歴ですから、閏(うるう)があります。 現在の日になおすと、7月10日は9月1日です。秋のはじまりです。今、便利になりましたね、 旧暦の何月いつかということがわかったら、今の暦になおしたら、西暦何年の何月いくかの何曜日というのがすぐにわかる本があるんです。それで見ると、9月1日です。この人は、和歌山を9日に出ましてね、そして歩いて南へ熊野街道を下ってきて、湯浅で泊まります。湯浅に「ヒロヤ」という宿屋があって、そこに泊まるんです。そして、湯浅から出て、 鹿ケ瀬を通って北塩屋へ入_,てきたんです。その北塩屋へ入ったときからの様子、この人が北塩屋で 一体どんなことをしたかというのがここを読んだらわかるので、これでもう今日の話しは終わりなんですけれども、 これではっきりわかってしまうんです。 読んでいきますが、「程なく北塩屋なる塩路氏何がしのかたに着して休足(息)し侍る」程なくして北塩屋にあります塩路某という人の家に着いて、休息し侍る。塩路氏なんです。 「明れば11日」 一晩あけて11日に「先此前の産土神王子権現宮にもうでて」 -晩泊まって11日に朝産土神の王子権現宮、これが今の王子神社のことですね。 そこに参って 「鈴虫や いとも尊とき 神の庭」といううたを詠んでいます。鳥居の絵を書いていますけども「鈴虫や いとも尊とき 神の庭」 という俳句を書いてますね。 俳句も詠みますし、 和歌も詠みますし、 何でもやる人なんです。 「和田浦比井の神職塩崎何がし」 だから、 この塩崎という人と塩路という人を読み違えてきたんです。今度ははっきりと字を確かめてまた読み直したんですが、和田浦の神社、御崎(みさき)神社ですね、比井の王子f神社、そこの神主の塩崎という人が 「予も兼ねて知音 (ちいん) なりしか」 私もかねてから知つておる人だ、勝本と知り合いだ、 「こたひ予か此辺へ罷出し事を聞かれて」 この度、 私がこのあたりへ出てくるということを聞かれて、 そういうことを聞いてね「尋ね来られける」 この塩路さんの家に尋ねて来たんでしょうね、 神主さんの家でしょうね。 そこへたずねてきた。 「宿のもてなし迄ちょっと酒肴のもうけに」神主さんのところで晩飯が出るまだ前だったので、酒、肴を用意してね、 ちょっと宴会をしたんでしょうね。 「近隣の壱両輩も打ち寄って」 近所の人二人の人もまた寄ってきて、神主さんも交えて話をするんです。 「四方山」の物語りに時を移して」四方山語をしたんですね。「夕景におもむきければ」夕方になつてきてる。「おのおの帰路を催しけるに」 もうぼつぼっみんな帰らんなんなあということを思ったんでしょうね。 「塩崎何かしと近隣の輩と」 御崎神社の神主さんと近所の人一人、二人来ておったんですが、 それが 「おなじたぐい (類) の扇を持来られて」 同じような扇を持ってきてね、 「其ぬし(主)をわかちがたく(難く)て」誰の扇子かわからなくなつたんです、そこでね。 「とれかこれかと取りどりなれば」 これわしのや、これわしのやと言うて取りあいみたいになったんでしょうね。そこで勝本が「即興に」歌をうたったんです。「ひと所へ 同し扇のより(寄り)ますや」同じような扇が寄ったよ。「いつれのぬし(主)と」どれが誰のものかわからない「ひま(暇)そわす(忘)らふ」暇ぞ、時間を忘れてしまった。これはわしのやと取り合いになってね、その姿が非常に面白かったんでしょうね。 だから、こういう 「ひと所へ同じ扇の寄りますやいづれを主と暇ぞ忘らう」 という歌を詠んで面白がって見ておったんです、 それを。 そっからあと、 神社の説明がきます。 「此北塩屋村の産土神を王子大権現宮 又は美人王子宮と申奉るよしにて」王子権現とかあるいは美人王子と呼んでおる。「古へより神徳いちじるしく (著しく)まさりて(勝りて)」」昔から神の徳が非常に優れておって「諸人尊敬し奉り」 諸人がそこを尊敬して「おのおの願望を懸奉るに」いろんな願い事をする 「成就せさる事無し迚(とて)」 願いをしたらね、 必ず聞いてもらえる神様である。 「朝夕参請のたへ間なくて」 朝タ参拝する人が絶え間がなくて、 みんながお参りする。 「社殿・拝所は造営日々にあらた(新) にして」社殿や拝所、 そういうところも建て直しを何回か重ねて来ておってね、新たにして「建(まこと)に清浄なる境内也」まことに清らかな境内である。「殊には 此御神に仕えます塩路何かしなるおのこ(男)」このお宮さんに仕えておる塩路何とかさんという人 「生質篤実の仁にて」 性格も非常にまじめな篤実な人であって 「此の御神の御徳を」 この神の徳を 「猶も諸人に知らしめん事をねか (願) ふて」 広くその人々に知つてもらいたいと思って 「本府なる」 これは和歌山ということですねお城のある和歌山におる 「仁井田好古先生に其よしを願われけるよしにて」塩路何とかという神主さんが仁井田好古に頼んだんですね。 「先生則碑銘を撰給ふて」 先生はすぐにその碑銘を考えてくれて、文章を考えてくれて「草稿して」これは字に書いたんですね。「これを予に石面に写し来よとの」これを持っていって石の上に写して来い「おふせ(仰)あれは」 そんなに先生から言われた。勝本が言われた。 仁井田好古からこれを石面に写してきてくれと、 この時に渡した草稿というのが、掛軸なんですね。あれが一番の元です。あれをそのまま写していくんですね。「此所にまか(確)出し序(ついで)」ここへ出てきたんだと言うんです。「四五日足をととめて恙無く石面に写して 神前に棒け奉りて」 ここで4、 5日かかってこの石面に写して神前にささげてこんな歌を詠んだというんです。 「かけまくも かしこき神の古へを 幾万代に残すいしふみ(石碑)」かけまくもかしこきという言集ですけども掛けことばですけども、 神の古をずっと後までも残すいしぶみである。「碑銘左に映し出す」 碑銘を後ろへまた碑文も写してるんです。ところが、今一番上に書いてあるこの字が見えないですね。題字といいます横にあるのが3、4字欠けてあるような、欠けてあるけれどもこれを見ればどんな字を書いてあったかというのがわかるんですね。 「塩屋王子祠前碑」ですね。ところが、もうこの人はね、自分が写した中で2、3字間違えてるんです。 これはもう人間のすることですね。こういうようなことを書いて、「何角用事もととのい(整い)ぬれば」とにかく先生から言われた事を果たしたので「十八日此處を立って帰路におもむき」 帰る道について 「又々原谷通り 鹿か背坂を越へて湯浅に出て宿し侍る」また、もとの湯浅で一泊をして、その翌日、今度は冷水浦から船で和歌浦へ行って、自分の家へ戻ってきている。 そこへ.詳いてある絵は、これは湯浅の宿でね、 ホッとしている所の姿です。非常におっとりした体に見えますね。 夕涼みをしている図と書いてあります。このトーの絵はね、何しているかといいますと、鹿ケ瀬のあの峠というのは、熊野の記伊路(きいみち) という海岸沿いを歩いてくる道の中で難所ですね。一番の難所です。これを越えて降りたところで、 やれやれというとこなんです、これ。疲れたなあ一という格好をしている。 こういうようなことで、今のこれを読みましたら大体あの碑がどういう事情でできたかというのがおわかりかと思います。その碑文とそれから仁井田好古の字を比べて写真で並べますと、 ちょっとわかりにくいですが、 非常によく似ている。 これは、 今でもそうですけど、書道をやる人は、書道の一番の基本は、昔の上手な人の先生の手本をそのままなぞることんなんですね。 それが一番、 臨書といいますけどね。これは書の基本なんですね」。それをしっかりやった人が写してるんですから、 よく似ているのは当たり前なんです。 ところが、 ところどころ見ていきますと、 やっばりちょっと違うやないかというような字もあります。この中で、地形の「地」という字なんかは2行目のところの真ん中あたりに「地形」と書いてあります。地形の「地」なんかはちょっと違うなあとということも感じる。これは、石の彫り方にもよるかと思います。こういう碑文の石を彫るというのは、いろんな方法がある。石へ直接、 書家に字を書いてもらってね、その通り彫っていくというのもあります。それから、元の文章なり字なりを書いた紙を石の上にぺタツと貼り付けてね、そして黒い部分だけを彫っていくと、そういう彫り方もあります。それから、 紙を貼って字の輪郭だけをとって、 そして紙をはずしてあと彫っていく、いろんな方法があります。この場合、おそらくもう直接字をここへ書いたんだろうと思いますねa。 だから、 非常によく似ておる。 だから、この碑面が・読めなくてもね、 本当のものがあるんですよ。 仁井田好古が本当に書いたものが軸として残っておる。 あれは、 基盤の目をきちっと引いてこの字の通り配置してありますね。 その通りなんですね。 これ 大きさもおそらく一緒だと思います。 だいたいこういう碑なんです。 こういうことは、ほかの碑ではありえない。 だいたい、 碑を彫ってしまうと元の文章は無くなるんですよ。 石とともに彫ってしまうことがありますからね。 無くなってしまう。 そういう意味で、 非常に貴重な史料であるということが言えます。今日、お配りいただいた塩屋文化協会の方で細谷さんがき苦労して作られた、 この碑の中に 一体何が書いてあるかということが、書かれてありますね。 それも非常に面白いと思います。 I5ページのところに現代語訳が、これを見ると、塩屋という所はどぅぃう所かという事が書いてありますね。 塩屋という地名は、 奈良時代、平安時代頃、ここで塩を作っておった、ということは、これに書いてあるだけではなしに、その当時の熊野詣でをした人たちの詠んだ歌の中にも 「塩屋の塩けむり」 というようなことが出てきますね。 塩を焼いておる、焼塩を作りますから、 焼塩のけむりがあがっておるというような歌がいくつか残ってあります。 だから、 塩屋という地名は塩を作っておった名残だというようなことを書いてますね。 それから、この付近の風景のことも書いてます。非常に景色のいい所だということを書いてある。美人王子だという名前なんかも、これは謂われはわかりません。わかりませんけれども、ここは非常に景色のいい所です。 だから、景色のいい所にある王子社ですからそこにはその美人がふさわしぃということですね。 美人王子だというんだという説もあるんですね。 そういうことも書いてある本があります。そういうような事柄、それから熊野詣でをする人達がここに何回もこの塩屋王子に通るということも書いてありますね。 そういう歴史的なところである。 そして、 ここへ立ったときに、人々が一体どういうことを思うだろうかということも仁井田好古は考えて、ただ単に楽しむ人もあるだろうし、ここへ来た人の中に大塔宮のようにいろんな苦労をした人のことを思い出して、 なんか悲しむ人もあるかもしれない。 あるいは、 ここへ来て、 非常に気持ちを大きくしてどんなことがあっても惑わされないと言いますか、世俗を超えたところで生活をすると、いろんな思いをこの岡の上に登ってね、するだろうと仁井田好古は書いてある。 非常に優れた文章だと思いますけれども、これを読んでいただいたら、 塩屋という所はいかにいい所であるか、これは熊野詣でをするときに、大体京都から熊野へ行くまでの間に九十九あったといいますね。熊野九十九王子という言い方もあります。ところが、 あれは九十九という数字は、 これはたくさんあるということです。実際はそんなにないんです。今、文献で-番よくわかつとるものでみても86が最高です。86箇所の王子があった。王子というのは-体何か、これはまあいろんな説があるんですけど、結局、熊野の権現さんの分身を祀るとぃいますか、 そういうところであります。 子どもの神さん、熊野の権現さんの。 そこへ来たときに、 そこは休憩場所にもなります。 そこでやることは2つあります。1つは、奉幣といつて、神さんをお祓いするときの幣をはらって、前途の災いのないことを願うという、そういう奉幣という行事をやる。それから、もうひとつは、そこでお経をあげるんです。般若心経ですね。 これは、 昔は、 神さんと仏さんというのは 一体のものだと考えておった。 日本に神さんがおるんやけど、これは中国やなんかにおる仏さんが神の姿をとって日本で出てきておる。 神仏混交といってね、 神さんと仏さんは -体のもので、だから昔は神社へ坊さんがバイトしますし、お寺の前に鳥居があるところが今でもあります。 これは明治維新のときに神仏混交という神道と仏教とが 一緒になっておるのは具合が悪いといって、無理やりわけたんですね。那智の神社のはたに青岸渡寺があって、勢力争いをやりますが、あれはもともとは一体のものであった。そういう考え方で来ておる。熊野の子どもの神さんを祀つてあるところということを王子と呼んで、そこでそういう幣を奉って、これからの旅路を析るということをやる。 それから、 もう一つは般若心経をあげている。お経をあげる。さらに、そこで一緒におる貴族たちが歌を詠んだりすることもあるし、舞を舞うこともあるし、いろんなことをやっと_,たわけです。雅楽なんかもやっとったろうし。 そういう非常に賑やかな場所であったんです。 どんな人が通ったかということは、上皇とかいろんな人がいっばい来ていますが、2、30同一生で来るんですね。 ああいう人たちは、 熊野へ何故参るかというと、山伏の影響があるんです。 山伏というのは、 山の中を歩きまわることによって、 修行を積むわけですね。 苦行をするほど、功徳があるということで、修行を積むんです。 だから、 京都の貴族たちが、 熊野へ参るときに一番簡単な方法は伊勢路を来るんです。船で来るんです。一番、楽に来られるんです。 わざわざ大坂まわって紀伊半島を歩いてぃくとぃうのは -番苫しい修行である。一番苦しい修行を何回も一生のうち20回、30同とやってるんですね。そういうことによって、修行を積んでぃくという、山伏と同じ心境であったと思う。 そういうひとつの休憩場所であり、 修行を積む場所としての王子というのがある。 この塩屋王子というのが、何故重要視されるかというと、現代でも九十九王子といわれる実際は85、6しかありませんけれども、その中で今残っているのは10もないですね。ちゃんとしてお祀りしている所というのはね。ほとんど無くなっておる。 文献で出るだけ、というところはいっばいある。 塩屋の王子が有名なのは、「海」だ。「海」というのは、海岸の景色なんです。ここは、昔の景色が素晴らしかった。京都の貴族というのは、海というのを知らない。 だから、 和歌浦なんかによく来ますね。聖武天皇が来た、誰が来た。これは、海を見たいから来るんです。紀の川をくだってきてね、和歌山へ来ると、今の和歌山市の全体はあれは全部砂浜です。砂浜、鳥取砂丘よりももっと大きいでしょうね、昔の砂浜は。それを越えたところで、木が見える。それを見たときに非常に感激するんです。 しかもその砂山の一番端には和歌の浦があって、そこに岩山の島があって、そこに和歌の神さまである「そとおりひめ」を祀ってある。だから、 そこへ来ることが歌人として歌を詠む人にとっては、 最高の旅行になるんです。 海というものに対する憧れが非常に強い。 それが、ここで実現できるんです、 この塩屋の地で。 ずっと、 紀伊路を来ても本当に海が真下にずうっと広く見えたのはここの場所なんです。ここからしばらくの間が一番綺麗なんです。だから、それに泊まれて、ここの土地を通っていくことになる。そういう土地だということなんです。時間が来ましたので、あまり長くしませんけども、結局、こういうことを考えていきますと、塩屋王子というのは、重要なのは先ほど言ったように、 たくさんの仁井田好古の作った碑がある中で、これだけ作った経過がわかる所は無い。しかも、実物の史料が残っておる。これはどこにもないことなんです。史跡の顕彰というもの、藩が考えてやったことではなしに、むしろ地元の人たちの熱意といいますかね この土地の素晴らしさを人に伝えたい、そういう熱意がきたんです。だから史跡顕彰というのは、上からこうやるもんではないと思います。 地元の熱意があり、 そしてもう一つ、江戸時代というものを考えるときに非常に重要なのは、人と人とのつながりなんです。これは何かというと、江戸時代の人々というのは、自分たちが考える以上に趣味が非常に多いんです。 和歌を詠み、短歌をやり、俳句をやり、 絵もあります。 いろんなサークルがいつばぃあるんです。 何とか連という言い方をします。 そういうサークルがいっばいあって、 それがネットワークを持って組んでおるわけです。それらの人たちが、自分の詠んだ歌を和歌山に送って、そこで歌集を作ってまた配るというようなことをしょっちゅうやっておる。それは、人の交流もあるんですよ。 それにのっかって、この十_地の人たちの碑を建てたいという気持ちがいつたわけでしょうね。 だから、本居大平の弟子がこの日高に10数人おりますね。
ここへ出てくる塩崎筑前という御崎(みさき) 神社の神主.さんも大平の弟子fなんです。そういうつてを辿って、 いくわけですね。 だから、今度こんな人がいくよ、というような連絡はすぐ入ってくるわけですね。 だから待ち受けておって、酒盛りをしてというようなことになる。そういう人々の間の文学的な素養とかいろんな素養が自分たちが考える以上に深いものを昔の人はもっておったと思います。これは、和歌祭ひとつとってもそうなんです。 この中にいろんな出し物が出てくる。 そこへ出てくるのは、 何かといったら全部謡曲からとっておるんですね。 それをみんなが理解できるわけです。まあ、そういうことなんで、江戸時代というものはもう一度見直す必要がある。自分たちが考えておる江戸時代というのは、非常に暗い時代なんです。 特に最近は時代劇よく見ますけど、 時代劇は非常に暗いですね。泥棒がしょっちゅう夜中を走りまわってますけども、走り同ることないんです。 まちごとに木戸があるんです。 木戸があって、晩に閉まるんです。だから泥棒が道を  あんなことは考えられない。それが泥棒なんです。大正時代頃から時代劇が流行ってきてから、あんな変な  です。 侍屋敷が出てきたら大きな表札が掛かってます。あんなことないんです。待屋敷は 一切表札出さないんです。 役所もかかってないんです。 かかっているのは、 三味線のお師匠さんだけなんです。ところが、映画でそれやるとわからなくなってしまう。 昔の通り時代劇作ったらどうにもならんと思います。女の人は第一眉毛ないでしょう。全部剃ります。お歯黒塗りますね。 そして、 着るものといったら、 時代劇に出てくるような綺能な着物きてない。 着るのは、 紺か茶色系統の色しかないんですから。 そういう女の人がウロウロされたら本当に恐ろしくなる。 ところが今の時代劇、非常に綺麗にしてある。それが、江戸時代だと思っておる。 そうではないんです。 江戸時代というのは、 本当に地道に地元の史料から積みl_げていかないとダメなんです。それをやらないとダメです。 私は、和歌山城を長く研究してましたけど、和歌山城なんてのは、人の出入り自由なんです。 門が閉まりましょ、京橋から京橋へ行くまでにちゃんと閉められてる○◯がおるんです。 侍というのは朝の10時頃にやってきて、 屋飯、 茶演けをよばれて、2時頃みな帰るんです。昼からの和歌郡のどっかの村ですけども、百姓の一家5人連れて、 和歌山」城へ来るんです。京橋の門番でチップを渡して、ウロウロしておって、二の丸まで入るんですよ。 ウロウロしておって出口がわからくなって捕まった。 そんな語がいくつも出てくるんです。そういうことは、和歌山城だけではない、大坂城もそうなんです。やっばり、お城の中に出入りする商人というのがありますね。 それを使って観光客連れて中に入る。城見物、そんな事考えられないでしょう。お城というのは、厳重なものと考えていますけどもそうではない。城の中にあった金蔵から四千両というような大きな金がポカーンと無くなるんです。何億というような金です。それが一晩のうちに無くなってしまう。そんなことが有り得たんです。3年ほど経ってその人は捕まりましたけどね。非常に不用心なところでした、城というのは。自分たちの江戸時代 。
今回のこういうようなことを機会にして、碑、昔の人がl75年前におそらくあの碑を建てた人は今日は非常に喜んでおると思います。また、自分たちの思っておった想いと同じ想いの人がおって、 今、 綺麗に修復して、 後の世まで残してくれた、塩屋地区というのは、 こういう所だということを残してくれた、 そういう思いでおられることだと思います。時間が来ましたので、これで終わらせていただきます。 まとまりのない語になりましたが。
ちょっと、少しだけ補足をさせてください。先ほど、「塩崎」と「塩路」を間違えたということを言いましたけれど、資料の中で3ページの中で後ろから2行目の終わりごろに「塩崎」と読めますね。この字はね、えぞってあるんですね。というのはね、偏の方が、足偏なんですよ、これ。つくりの方が、「崎」のつくりなんです。だから、おそらく最初「塩崎」と書いて、 あとで偏だけをいらって、 こんな字はないはずなんです。 これが間違いのもとなんです。非常に微妙なもんですね。他の「塩崎」と「塩路」という字の2つが寄り集まった字がこれなんです。 それが間違いのもとであったんです。