塩屋王子神社

 

塩屋王子神社の謂われ   塩屋王子神社案内図

sioyaouji-hp-top

七世紀初頃、日高に名代として建部(たけるべ)の君(きみ)が着任し、住まいを北塩屋に構え、塩屋を別領(わけりょう)すなわち皇族領とし、特に北塩屋を別(わけ)の里と称しました。建部の君は諸国の名代・小代を統括、また藤原宮の建部門を預かり大伴氏と共に天皇を御守り申し上げました。建部の君が御崩御せられ時、塩屋の人々は大いに哀しみ偉大なる建部の君をお慕い申し上げる為、重陽の節句に御祭礼をおこないました。神輿の後に四神を配し衣笠を貴人に差し掛け、従者七人と美人八人が続きました。以後、約一千三百年以上もの間、塩屋王子神社ではその御祭礼を行っています。
紀氏の起こりは、欽明天皇の孫 財皇女(たからのこうじょ)が用明天皇の孫  高向王と結ばれ皇子が誕生し、建皇子(たけるのおうじ)と称した、皇子は成人してからは十二門のうち重要門である建部門を預かり、伴の造(とものみやっこ)として一大軍事力を擁し、紀伊 河内 和泉 摂津 播磨 美作の重要地を有し、大和内智の郡(うちのこうり)五条を預かり大いにご活躍された、その後八世紀に建部君の子孫は、紀氏を名乗り郡司を拝し、八色の姓では上から第二の地位朝臣(あそん)の位を賜っている。
昔から塩屋では製塩をしていた。天皇家(明日香)で使う塩は塩屋の塩と決められていて、御供えなどに使われていました。古文書に、日高より時の朝廷に白銀を調するとあります。当時、我が国で銀の採掘できる所は対島であり、船を繰り出し交易するのは日高紀氏の得意とするところでした。また、猪の皮を毎年十枚調するとありますが、塩屋の枝郷、猪野々で養豚をしておりました。もちろん朝鮮より斎した黒豚で矢傷や刺し傷のない美しい養豚でありました。それらを朝廷へ持っていくおり荷馬の後よりポコポコと子馬がついて行くのを見て大変な良馬に都の人は目を見張ったとあります。諸々の技術者が塩屋に住んでいたのではと思われます。
十世紀になると熊野信仰の興隆にともない、既存の神社を王子神社に仕立てていき、。塩屋王子神社は最初に出来た七王子(藤代、塩屋、切目、磐代、瀧尻、近露、發心門の七社)の中の一社であった。
熊野御幸路において藤白坂より海を眺めたものの山また山を越え塩屋に入り、田辺に至るまで海岸に沿える道は、甚だ楽しい眺めであったことは中右記に「塩屋王子に至り奉幣す、上野坂上に於いて祓し、次に昼養、次に伊南の里を過ぎ次に斑鳩王子・・切部王子に参る、日入るの間切部庄下人小屋に宿る、今日或は海浜或は野徑を歴、眺望極りなし、遊興多端也」とあり、御幸記には「この宿にて塩ゴリをかく、海を眺望するに甚雨に非ずんば興あるべきなり」とあります。正治二年十二月三日後鳥羽上皇三度目の熊野御幸の時、切目宿にて「海辺晩眺望」の題下に読める「漁り火の光にかはる煙かな灘の塩屋の夕暮れの空」と藤原家隆卿が詠んでいます。
江戸時代、元和の洪水を期に名屋が分離し、以降、明治六年まで塩屋浦山田荘九か村(北塩屋、天田、猪野々、森岡、南谷、立石、南塩屋)は塩屋王子神社と武塔天神社(現須佐神社)の二重氏子であったが、それ以降、北塩屋、天田、猪野々、湊が塩屋王子神社の氏子となり現在に至っています。

塩屋王子神社案内図

塩屋王子神社MAP