道成寺創建の時代

道成寺 創建の時代  郷土の文化と歴史を学ぶ会 溝口善久

「仏教芸術142号(毎日新聞社出版)「道成寺の発掘調査」/水野正好氏著」から
道成寺創建の時代を考える

7世紀後半から8世紀にかけて、特に西暦697年から705年までの9年間は日高や紀氏にとって激動の時代でした。日高や紀氏がどういう立場であったか、考えていきます。

七世紀後半から八世紀の日高の動き
日本最初の仏教説話集『日本霊異記』(※1)(平安時代初期)には「紀万侶の朝臣は日高の郡の潮(みなと)に住まいし‥」とある。『潮』とは北塩屋の湊と推察できる。また、『日本霊異記』の中に、延暦年事として「延暦四年(785)紀直吉足は紀伊の国日高の郡、別(わけ)の里(※)、塩屋の『日本霊異記』梯(てい)の家長の公なりき」とも記されている。「別領(わけりよう)」とは皇族領のことで、中でも北塩屋を「別の里」と称した。
当時、塩屋から岩内、熊野(いや)を中心に日高には紀氏の一大拠点があり、そのことは、この地に紀氏関連の六世紀後半から七世紀にかけての古墳が約百基もあることからも証明している。水野正好氏の『道成寺の発掘調査』では 『紀大臣道成は、恐らくこの紀朝臣(※3)麻呂を指すものと考えてよいであろう。』と結論づけている。紀氏からは、麻呂が正三位(※4)・大納言、諸人が贈正一位・大政大臣、百継が参議・従二位を始め、多くの官僚を輩出した。女子も宮子の他にも文武朝に籠門娘(かまどのいらつめ)(※5)が文武天皇の嬪(ひん)となった。宮子が妃、籠門娘が嬪で第二夫人であった。
また、紀朝臣諸人の女、橡姫(とちひめ)は施基(しき)親王との間に白壁王(後の光仁(こうにん)天皇)を生み、光仁天皇に即位するに及び、紀氏は桓武天皇の外威として勢力を得、広純・家守が参議、船守・古佐美は大納言となった。諸人・船守・広純らは軍事面でも活躍した。8世紀には若子が桓武天皇の宮人になるなど、多く宮廷に入っていたことが、紀氏の系図や文献から読み取ることができる。
701年(大宝元年)に編纂された大宝令により郡が置かれた。郡司には、大領,少領、主政、主帳と4家あり、天皇家でお后で入れるのは、大領と少領だけであり、天皇家と繋がりのある家系でないと皇后として決して入ることはできなかった。

尚、「クハマ王子」は宮子との関係はあの伝説以外には見当たらない。「葵園養考 芝口常楠書」の「クハマ王子」の項の中で『伝説には海士を祀ったと云い、海士の娘文武天皇の皇后となられた宮子姫であるとしている。海士が海中よりかずき上げし「えんぶだごん」の観音を信仰し、禿頭の娘が丈なす黒髪の美人となり、宮中に入ってそのために勅願の道成寺が建立せられたという程の仏法信仰者が神仏混こうなど思いもよらぬやかましい時代に、宮子姫が神として祀られるなどは後世のことならばいざしらず、当時のこととしては少々合点が行きかねる。伝説をいじくるのは心なきわざであるが、一寸興のわくままに御笑草とする。』と一蹴している。  (文責 溝口善久)

☆ 紀朝臣宮子(きのあそんみやこ) (藤原朝臣宮子)677- 754年8月11日
当時、皇族出身者には八色の姓制度の内、真人、朝臣の称号が与えられた。権力の握った不比等であったとしても家柄・血縁を重んじる皇族に入ることができなかった。そこで不比等は、文武天皇元年(697年)8月、19歳の紀朝臣宮子を藤原の養女に入れ、その直後、藤原朝臣宮子として、僅か15歳になったばかりの文武天皇と結婚させた。宮子が文武天皇と結ばれた後、698年8月、藤原不比等に朝臣がつく。大宝元年(701)には、紀朝臣麻呂は藤原朝臣不比等や石上朝臣麻呂と共に大納言に昇進する。また、同年、宮子は首の皇子(後の聖武天皇)を産んでいる。
紀麻呂と宮子との年齢差は19歳。宮子は麻呂(道成)の娘、または極めて近い人物であろう。名前の「宮子」の「宮」は皇族でしか使えなかった。今よりもずっと身分制度の厳しい時代に、髪長姫伝説のようなシンデレラはあり得ない。実際はは宮子は朝臣として、『別の里』塩屋で生まれ育ったのである。                  (文責 溝口善久)
※1 日本霊異記  仏教説話集。日本の説話文学集の始祖的作品。
正式書名は《日本国現報善悪霊異記。奈良薬師寺の僧景戒撰述。成立は最終年紀の822年(弘仁13)以後まもない頃。ただし787年(延暦6)には原撰本が成る。

※2 別(わけ)の里 別領(わけりよう)(皇族領)とは当時の塩屋、つまり北塩屋、南塩屋、森岡、明神川、熊野、岩内を言い、特に北塩屋を『別の里』と称した。

※3 朝臣(あそん) 八色の姓(やぐさのかばね) 天武天皇が天武13年(684)に新たに八色の姓を制定した「真(ま)人(ひと)、    朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓の制度とした。このうち真人、朝臣は皇族を租とする。冠位制度上の錦冠の官僚を出すことのできるのは真人、朝臣、宿禰、忌寸の姓を持つ氏に限られていた。

※4 奈良時代の中央官制
中国(唐)の中央集権体制に学び、律令国家を目指した奈良時代の中央官制は「二官八省(にかんはっしょう)」 とよばれた。二官は神祇官(じんぎかん)・太政官(だしょうかん)、太政官の元に8つの省があり、省の下に、職、寮、司で 呼ばれる役所が付属していた。役人は朝早くから朝堂院に出仕したが、五位以上の貴族は朝堂 に自分の席があり、それ以下の役人は各官の曹司(そうし)(宮中や官庁内に設けられた女官・官吏 などの部屋)で働いた。役人の勤務時間は、朝6時30分前から正午頃までだったとされていた が、下級の役人は残業が多く、午後も働くことが多かったようだ。五位以上の官位   従五位(少納言)、正五位、従四位、正四位、従三位、正三位(大納言)、従二位(右大臣)、正二位(左大臣)、従一位・正一位(太政大臣)

※5 篭門娘(かまどのいらつめ) 文武天皇の妃(きさき)、天皇の寝所に侍する女官。皇后の下位。文武元年(697)8月 石川朝臣刀子娘(とうすいらつめ)と共に嬪(ひん)とされたが、和銅6年(713)11月、共に嬪号を除かれた。なお、この煩号剥奪の首謀者を首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)擁立をすすめる藤原朝臣不 比等と、その後室、県犬養(かたいぬかい)宿爾三千代とする説がある。

参考資料 日本霊異記(にほんりょういき) (紀氏関係) 
※平安時代初期に作られた、日本で最初の仏教説話集。仏教に関する異聞・奇伝を描いた短編物語が、全部で112編集められてる。”因果応報”(善い行いや悪い行いに対する報い)の例となる話や”霊験”(仏さまの力が実際に現れる)の話など、仏教の教えを判りやすく具体的に示すエピソードが多数おさめられている。時代背景は、大和時代から平安時代まで。
・「光仁天皇の御世の宝亀六年(775)、乙卯の夏の六月十六日に、天俄に強き風吹き、雨降り潮(みなと)に大水漲いて雑の木を流し出す。紀万侶の朝臣に遣りて流れる木を取らしむ」
・「紀万侶の朝臣は、日高の郡の潮に住まいし‥」
※日本霊異記  延暦年事 延暦四年(785)
紀直吉足(きのあたえよしたり)は紀伊の国日高の郡、別の里(わけのさと)塩屋の梯の(はし)家長(いえぎみ)の公なりき。
大海に漂流したが釈迦仏の名を唱えたため、救われたという説話がみえる。それによれば、同紀臣馬養(うまかい)は、同国海部(あま)部浜中郷(和歌山県海草郡下津町・有田市付近)の中臣連(むらじ)祖父麿(おおじまろ) とともに、同国日高郡の潮の漁師紀万侶朝臣に雇われ、網を引いていた。白壁(光仁)天皇の宝亀六年(775)六月、暴風雨で潮に水があふれ材木が流れ出すと、馬養と祖父麿は万侶の命により流木を取つて筏に組み、それに乗つて木をとっていた。ところが、筏が壊れ漂流すると、二人はただ「南無、無量災難を解脱せしめよ、尺迦牟尼仏」と唱えて哭き叫ぶばかりであった。祖父麿は五日後、馬養は六日後に淡路国の南西田町野浦(兵庫県三原郡か)に漂着した。祖父麿は再び殺生の業に就くことを嫌い、その地の国分寺の僧になった。馬養は二カ月後に家に帰つたが、のち発心して、世を厭(いと)い山に入り仏法を修したという。
参考資料 紀氏 (日高地方の荘園資料より)  家紋は木甲紋。
・4世紀  景行天皇(262年即位)より建部君出る
・6世紀  欽明天皇時代 金刺氏と名乗る 紀国日高を預かる。
信濃国、駿河国、伊豆ノ国、越中ノ国、紀ノ国に金刺を遣わす。
これらを紀の金刺が統括する。
・7世紀~8世紀 紀氏を名乗り、郡司を拝し朝臣を賜る
・14世紀 南朝に忠誠を尽くし戦功あり
・15世紀 石清水八幡宮の勘合貿易に従事し朝鮮、東南アジア諸国へ行き活躍する
・16世紀 別領=北塩屋・南塩屋・森・明神川・熊野・岩内と名田村、印南周辺・稲原村、切目を領し各村に代官を置く
建部氏 たけるべうじ(日本古代氏族人名辞典)より
軍事関係氏族のひとつ。姓は君、臣、首など。そのうち有力なのは建部君氏と思われる。
現在では建部を軍事的職業部とし、その伴(ともの)造(みやつこ)氏族として建部君氏などをとらえる意見が強い。建部氏は藤原宮以降の宮城門と関係あるいわゆる門号氏族のひとつでもあり、朝廷守衛の任を有していたのであろう。
「仏教芸術142号 特集紀州の文化財/昭和57年5月 仏教芸術学舎 毎日新聞社出版」
      「道成寺の発掘調査」/水野正好氏著 から 「道成寺創建の時代」
水野正好氏:奈良大学名誉教授、大阪府文化財センター理事長、
日本文化財科学会会長、全国埋蔵文化財法人連合協議会会長
道成寺の発掘調査
道成寺の発掘は和歌山県文化財保護神儀会委員巽三郎氏、奈良国立文化財研究会西岡巌氏を中心に調査をする体制をとった。第一回の調査は今から39年前の昭和53年2月25日からはじまり3月12日まで。第二次調査は昭和54年7月24日から8月12日まで。第三次は昭和55年8月18日から9月3日まで。第四次は昭和56年8月21日から9月3日まで行われた。こうして四度の発掘調査によって道成寺の旧伽藍(がらん)があきらかになった。
道成寺 そのなりたち
「寺伝では、道成寺は文武天皇大宝元年(701)、紀大臣道成が勅(ちよく)(※6)を奉じて天皇夫人宮子媛(ひめ)の御願寺として、創建するところ義淵僧正(ぎえんそうじよう)(※7)の開基(かいき)になる」と説いている。この寺伝をまず検討することとしよう。
まず、第一に注目されるのは、紀大臣道成の存在である。寺伝に伝えられる紀大臣道成の名は史籍には求めえないものの、 大宝元年の朝廷をうかがうと、紀朝臣麻呂の存在が浮かび上がる。『続日本紀』には大宝元年(701)三月「大納言正従二位阿部臣御主人(あべのあそんみぬし)を右大臣、中納言であった正正三位石上朝臣麻呂、藤原朝臣不比等、正従三位紀朝臣麻呂を大納言とする」ことが記されている。朝廷の枢要(すうよう)を占める顕職に紀朝臣麻呂が就いているのである。
慶雲二年(705) の麻呂の死去にあたっては、特に「帝(みかど)深(ふかし)悼惜(とうせき)、特(とく)賜(たまもの)葬(そう)儀(ぎ)、遣(つかい)中(ちゆう)納(な)言(ごん)正四位下高向朝臣麻呂宣(せん)命(みよう)」といった哀(あい)惜(せき)の念深い重(じゆう)臣(しん)であったことが記されているのである。寺伝にいう紀大臣道成は、恐らくこの紀朝臣麻呂を指すものと考えてよいであろう。 とすれば、大宝元年(701)は紀氏にとって極めて重大な意味をもつ年であったことが窺(うかが)われるであろう。
一方、紀氏にあっては、加えて紀朝臣篭門娘(かまどのいらつめ)の存在がある。麻呂が大納言に任ぜられるに先立ち、文武天皇元年(697)、即位に伴い皇后・皇妃が定められているが、皇后(夫人)には藤原朝臣宮子娘が、妃には紀朝臣篭門娘、石川朝臣刀子娘(いしかわのあそんとじいらつめ)が納れられているのである。紀氏の出身である篭門娘が朝廷の内廷の一画を占めており、しかも藤原朝臣宮子娘一夫人と親近の存在として場を得ているのである。朝廷の内廷に篭門娘、朝廷の外廷に麻呂朝臣を出すという顕然(けんぜん)たる権勢(かんせい)が、道成寺創建時の紀氏をとりまく雰囲気であったということができるのである。
このように紀氏の動向が理解されると、本寺の創建に、何故、藤原朝臣宮子(文武天皇夫人)が係わり合うのかが問わねばならないであろう。紀氏の氏寺としての創建を寺伝があきらかにされなければならないのである。
「藤原朝臣宮子は藤原朝臣不比等と賀茂臣比売女(かもあそんひめ) (※9)の間に生まれ、文武天皇元年(697)、先述したごとく皇后-夫人としてたち、大宝元年(701)には、皇子聖武の誕生の慶事があった。ただ聖武の誕生後は、久しく幽憂に沈み、神亀元年(724)聖武が皇位を継ぐや大夫人に、続いて皇太夫人・大御祖の尊称をうけ、天平勝宝六年(754)の崩時には太泉太后とまで称されるに至る女性である。」寺伝にいう大宝元年は皇后宮子にとっては文武天皇との間に皇子聖武を儲けた重要な年であり、 この一年の間は天皇・皇后、藤原氏、内廷にとって緊張と男子出生を祈願する多事多端な一年であったと考えられよう。
このような点から義淵僧正(ぎえんそうじよう)の動向を追い求めて見ることもまた重要な視点であろう。道成寺の開基とされる義淵憎正は、文武天皇三年(699)十一月、はじめて『統日本紀』に登場してくる。朝廷がその学行を誉めて稲一万束を施したと記しているのである。つづけて、大宝三年(703)には義淵法師を僧正となすと述べ、神亀四年(727)十二月に僧正の死を伝えている。この義淵僧正の生涯を検討するとき注目される二、三の事実がある。法師義淵が僧正に任ぜられるに当たり、当時律師(りっし)、小僧都(しょうそうず)、大僧都、僧正(そうじよう)と順次僧階を登るという慣例を破り、突如僧正に補任される形をとり、しかも僧都・律師の同時補任も見られなぃといつた特殊な在り方が浮かび上がる。こうした補任の特異さは、神(じん)亀(き)四年(727)の聖武天皇の勅に見られる「(義淵僧正は)先帝の御世より朕が代に至るまで内裏に供奉し一つの咎(とが)めもなく」の語りにもあるように内裏供奉(だいりくぶ)僧としての職掌に基づくものである可能性が強い。義淵の法弟玄昉(※8)は義淵没後九年を経て僧正となるが同時に朝廷の内道場に入り、皇太夫人藤原宮子の病を看、効験のあったことが記されている。流俗の言として善珠法師が皇太夫人宮子と玄防僧正密通のと噂されていることを想えば、義淵僧正の僧正補任は玄昉と同様、顕僧としての声望を受けて朝廷の内道場に入り、文武天皇をはじめ聖武誕生ののち幽憂に沈む宮子夫人の護持に当たるための補任である可能性が強いのである。
顕僧として施稲が文武天皇三年、僧正補任が大宝三年、この間に道成寺の草創、大宝元年が入るのである。換言すれば顕徳の僧として高く評価された義淵は、宮子夫人の懐妊、聖武誕生という大宝元年の動向に係り合い、産後の宮子夫人幽憂を救うものとして内道場に入り僧正となる、と考えてよいであろう。宮子夫人の御願寺としての伝承をもつ道成寺が開基に義淵僧正を宛てることの意味は、大宝元年、それ以降の宮子夫人と義淵僧正の動向を見る時、それ相当の根拠をもつものであることが理解されるのである。
紀氏の権勢(けんせい)、文武天皇と宮子夫人の間の聖武誕生、内裏に供奉する義淵法師、こうした三者の絡み合いの中で道成寺が成立するとしても、なお紀伊国日高郡矢田郷にこうした寺院が建立される理由は説きえていない。こうした面を明瞭にするのは、大宝元年(701)十月の紀伊国行幸であろう。『続日本紀』には「天皇幸二紀伊国一、冬十月丁末 、車(しや)駕(が)至二武漏温泉一、成申従官并国郡司等進階并賜二衣衾一…」と記されている。
この行幸は早くから計画され、八月には行宮、御船三八隻が準備されている。恐らくこの間、三月に大納言となった紀朝臣麻呂の身辺は極めて朝廷と親密な動きをもったものと推察されるのである。懷妊・誕生・成長といった流れをもつ皇子聖武と、それを見護る文武帝・宮子夫人・義淵の間を巧みに見究めた上この紀伊国行幸、武漏湯入湯の過程で紀朝臣麻呂は文武天皇の勅を得、懐妊・誕生の不安と安堵の彩りをもつ宮子・大人の御願を容れ、その身辺を護持する義淵を開基に迎える、といつた適成寺創建の経維が復原されてくるのである。
こうした経緯からするならば、道成寺の創建は必然的に大宝元年(701)に求められることとなるであろう。寺伝として語られる内容は、極めて真実に近いものとして理解されるのである。ところで、こうした所伝とは異なる別伝が見られる。慶雲年間の道成寺創建を説くものである。慶雲二年(707)には大納言紀期臣麻呂の薨、藤原不比等の病臥、慶雲四年(707)には、文武の崩御を見ている。大宝元年創建説に登場した主要な人々の死去・病臥に係る歳月として慶雲年間を意味づけることが出来るのである。大宝K元年に創建の物を得て創始された道成寺の建立が、 その創建を彩った人々の病や死の影の中で平癒への祈りをもって一層の造・等の進渉がはかられる、そうした動向を語るものとして慶雲年間車創説が登場してくるのではないかと考えられるのである。
(※6)勅(ちよく)    天皇の命令。天皇の仰せ言(ごと)。みことのり。

(※7)義淵(ぎえん・ぎいん、皇極天皇2年(643年) – 神亀5年10月20日(728年11月29日)
奈良時代の法相宗の僧。 『扶桑略記』や『東大寺要録』では、父母が長年観音菩薩に祈願して授かった子で、天武天皇により皇子とともに、岡本宮で養育されたという。出家して 元興寺に入り唯識・法相を修め、龍(りゆう)蓋(がい)寺(じ)(岡寺)、龍門寺、龍福寺、龍泉寺、龍象寺などの5ヶ龍寺を創建した。文武天皇3年(699年)、学行褒(ほう)賞(しよう)で稲1万束を賜り、大宝3年(703年)に僧正に任じられた。元正・聖武両天皇の下で内裏に供奉した。『続日本紀』には、先代からの行いを称され727年(神亀4年)に岡連の姓を賜り兄弟に仕えることを許された、とある。『三国仏法伝通縁起』によれば、弟子に玄(げん)昉(ぼう)・行(ぎよう)基(き)・隆(りゆう)尊(そん)・良(ろう)弁(べん)(※8)などがおり、道慈・道鏡なども義淵の門下であったという。

(※8) 玄肪:げんぼう ?‐746(天平18)
奈良時代の僧。716年(霊亀2)学問僧に任じられ,翌年入唐し,法相宗を学び,玄宗皇帝から紫の袈(け)裟(さ)着用を許された。735年(天平7)諸仏像と経論5000余巻をたずさえ帰国。経論を光明皇后の写経所に提供した。皇后は彼のため海竜王寺を左京一条二坊に建立した。737年疱(ほう)瘡(そう)飢饉の猛威に除災招福が切望され,彼は僧正に任ぜられ,宮中の内道場で仏事を主宰して勢威を高め,藤原宮子(聖武天皇の母)の鬱(うつ)病(びよう)を快(かい)癒(ゆ)させ,賞された。
(※8) 行基 ぎょうき 668-749 飛鳥(あすか)-奈良時代の僧。
天智(てんじ)天皇7年生まれ。大阪府和泉の人。義淵,道昭に法(ほつ)相(そう)をまなぶ。各地で布教のかたわら架橋,築堤,池溝開削,布(ふ)施(せ)屋の設置などにつくして多数の信者を得,菩薩(ぼさつ)とあがめられる。その活動は百姓をまどわすとして一時禁圧されるが,聖武天皇の帰(き)依(え)をうけ,天平15年東大寺大仏造営の勧(かん)進(じん)をおこなった。17年わが国初の大僧正。畿内に49寺院をひらいた。

(※8) 隆尊 りゅうそん 706-760 奈良時代の僧。
慶雲3年生まれ。義淵(ぎいん)に法相(ほっそう),華厳(けごん)をまなび,大和(奈良県)元興(がんごう)寺にはいる。伝戒師招請を舎人(とねり)親王に建議し,栄叡(えいえい),普照を入唐(にっとう)させて鑑真(がんじん)渡来のきっかけをつくったという。律師となり,東大寺大仏開眼会では導師をつとめた。

(※8) 良弁 ろうべん 686-773
義淵に法相をまなぶ。金鐘寺(現東大寺法華堂)を建立し,審(しん)祥(じよう)をまねいて華(け)厳(ごん)経講をひらき,華厳宗をひろめた。大仏造立など東大寺の発展につくし,天平勝宝4年初代別当。のち大僧都,僧正。

熊野詣時代の道成寺
「道成寺縁起」とは別に道成寺を語るのは『中右記』である。藤原宗忠は天仁二年(1109)十月十九日、熊野詣での途次、各王子をめぐり連同持王子に参詣ののち道成寺の前を通り過ぎ日高川を渡り石川庄司宅に宿った次第を書きとどめている。当日は風雨激しく難行苦行の末、増水した日高川を渡るため道成寺の前を過ぎるの一語となり、また、途中の社寺への参詣を記さないだけに寄寺の計画もなかったのかと考えられるのである。
いずれにせよ道成寺の寺観の存続を伝える重要な記録であり、熊野詣での景観に道成寺が大きな役割を果たしていることを告げる記録であると言えよう。

道成寺-その発掘調査から
道成寺の軒先瓦は寺の三つのうねりを示している。八世紀初葉、文武天皇と宮子夫人の御願をうけて義淵僧正を開基とし、紀朝臣麻呂大納言が聖武皇子の誕生と関係づけて道成寺が創建され始める、このうねりを示すのが第一系諾の屋瓦の語りである。一寺の造立はかなりの時間を要する上、文武天皇の薨、大納言麻呂の死去、宮子大人の病臥もあり一時は造寺の進捗が緩まる日々が見られたかも知れない。 聖武皇子が即位しその政が開華し始めると道成寺はその父母御願、誕生の祈願寺として意識されるのであろうか。平城宮所用の瓦范が動き、国分寺回廊と同様な複廊の制をとった回廊がっくられ、 ここに道成寺草創の完成、整った寺観が完成するのである。第二系諾はこうした道成寺の光輝ある日を語る屋瓦といえるであろう。完成した道成寺、古代律令国家とも深く関連して堂塔を誇った道成寺が次第にそのエネルギーを失いはじめた十世紀初葉、再び道成寺の再建・ 改修を中心とした華々しい動きが起こる。第三系語の屋瓦はそうした建物の新生復活を語るものであるし、千手観音像を初め優れた作行きをもつ仏像の諸像は一記るぺき仏の新生、復活を語りかける。語り継がれた安珍清姫の原伝承も、またこの時期の道成寺の動向を示すものである。真北を軸として造寺された道成寺の軸に変化がおこり今日の堂(どう)塔(とう)のもつ軸が誕生してくるのもこの時期であろうか。(以上 道成寺の発掘調査/水野正好氏著から)

(※9)賀茂朝臣比売 かものあそんひめ  梅原猛著 海人と天皇-日本とは何か 新潮文庫1995
「カモヒメは藤原宮子の母である、」と史書は記す。カモヒメの父は賀茂小黒麻呂、祖父は賀茂朝臣吉備麻呂と史書は言う。祖父吉備麻呂は『続日本紀』に登場し ている。もちろんカモヒメも『続日本紀』にその存在を記されている。天平七年(735)十一月「正四位上賀茂比売卒す」。さらに彼女ははっきりと天皇(聖武帝)の外祖母と記されている。史書はカモヒメなる人の実在を語るが、それでもなお彼女の存在は怪しい。「加茂氏系図」を丹念に追うと、宮子の時代に賀茂比売は存在出来ない。「ヒメ」は巫女の一般名称である。
紀氏 (紀臣家)(日本古代史族人名辞典から)
紀氏には先祖が竹内宿禰と謂う紀国造家と紀臣家があり紀朝臣麻呂は紀臣家に当る。紀国造家と紀臣家との関係は十分明らかでなく、氏の性格・活動分野かなり異なる。紀臣家・紀氏は一方では、杉や樟(くす)を用いて外航用の構造船を多数造り、他方でその同族を阿波・讃岐・伊予・周防・豊前などの諸国に分布させて紀の水門(みなと)から四国ぞいの瀬戸内海航路を自己の支配下に確保。その上で海部直(あまべあたえ)(※10)らを軸にした水軍を統括し、朝廷による朝鮮遠征・経営の一翼を担つたらしい。『日本書紀』によると、応神・仁徳朝の角、雄(ゆう)略(りやく)朝(ちよう)の小弓、雄略・顕宗(けんそう)朝の大磐、欽明・崇峻(すしゆん)朝の男麻呂らは、いずれも朝鮮各国で転戦しており、外征に深く関与したことがうかがわれる。
因みに、紀伊地方の古墳には、馬甲などの副葬品や石室の造りなど中国・朝鮮の影響が強く反映し ている。外交・軍事面の功績によってその後も武の名門と目されたようで、八世紀に入つても諸人が征越後婚夷(しょうえちごこんい)副将軍、船守が藤原朝臣仲麻呂の乱に当り勲功あって近衛大将、広純が陸奧按察使(むつあぜち)兼鎮守副将軍、 広純が伊治公呰麻呂(いじきこのあさまろ)に殺されると古佐養ただちに征東副使、次いで征東大将軍となり、 蝦夷(えぞ)などの征討軍を率いて活躍している。
こうした一族の活躍をうけ、七世紀後半の天智朝には大人が御史大夫(ぎょしたいふ)(大納言の古い呼び名)となり、文武朝にも篭門娘(かまどのいらつめ)が嬪(ひん)、麻呂が大納言、以下麻路が中納言、飯麻呂が参議にそれぞれ就いた。さらに諸人の女、橡姫と施基(志貴)皇子との子である白壁王(光仁天皇)が即位すると外戚として優勢となり、八世紀末-九世紀にかけての光仁朝以降仁明朝初めまでに参議として広庭・広純・ 家守・勝長・百継、大納言に船守・古佐美などを輩出した。
その後、名虎の女静子が文徳天皇の後宮に入つて惟喬(これたか)親王を生み、その即位が期待されたが藤原北家の力におされて実現しなかった。しかもかえって貞観八年(866)の応天門の変で豊城・夏井が失脚し、これを機に政界では大きく衰運に向かった。しかし一方で文筆の家として台頭した。はやくは清人が『日本書紀』の編一裏に携わってのち文章博士となり、『懐風藻』にも一族の詩文が多く採られた。さらに『古今和歌集』の撰者として貫之・友則、真名序作者として淑望を出し、また長谷雄が菅原朝臣道真の遺託で『菅家後集』を編み、みずからも『紀家集』などの漢詩文集を作るなど、平安時代を通じて和歌・漢詩文の両分野に優れた人材を輩出している。(日本古代史族人名辞典より)

※10 海部直(あまべのあたえ)  古代日本海の海上交通網を支配した、海部直一族