前方後円墳

『天田28号古墳・前方後円墳』
全長30m、巾20mの前方後円墳。前方後円墳は古墳時代から飛鳥時代に掛けて多く築造されているが、当地方では珍しく、この天田28号古墳が、唯一の前方後円墳である。調査報告書に「28号墳からも馬具(尾錠・留金具・轡片)、鉄矛などが出土し、日高群内に所在する他の古墳群とは、副葬品に際立った異いを有し、その内容から察するに軍事的色彩の強い集団であったこと窺われるとしている。6世紀に大和政権の下、軍事面で活躍した人物」とある。
そこで、浮上するのは、飛鳥時代から藤原京時代にかけて朝廷の軍事面を任されていた建部氏である。建皇子は、6世紀中頃、日高に名代として着任し、住まいを別の里・北塩屋にしていた。建部氏は諸国の名代・子代の長官として君臨し、7世紀に子孫は藤原京宮城十二門のうち、重要門である建部門を預かり、大伴氏と共に御所を預かる。天皇の即位には大伴氏と共に立合いをしている 。建部君は伴の造として一大軍事力を有し、紀伊、河内、和泉、摂津、播磨、美作の重要地を有し、大和内智の郡、五条を預かる。同族堺部氏に管理を命じ、紀氏の陸軍として威力を発揮し諸国を転戦する。塩屋の人々は、偉大なる建部君をお慕い申し、七世紀より先、千数百年に渡り
皇子の御違徳を忍びお祀りを営む。毎年、重陽の節句にご祭礼し、衣笠を貴人に差し掛け縦者の後よりみめ麗しき女官十数名従えて貴人の御成を四神が守り、渡らせ給うこととなる。現在も高松塚古墳壁画に描かれている風景が塩屋王子で営まれている。建部氏は「金刺氏」から7世紀には「紀氏」を名のっている。