日高 地名の由来

「日高」 地名の由来は

『日高というのは紀伊統風土記には「日の高く真秀に坐して照り輝く」と云つてぃるが、喜田貞吉博士は大和民族以外の異民族をヒダ又はヒナと云い、カは在りか、住みかの如く所在を示すものとある。日高の地名は山間僻陬の地に往々ある上田井(美浜町)に於てァイヌ系の縄文土器の出土もあれば、事実としても考えられるであろう。
それはともかくとして、日高の名の最も古く文献上に出ているのは、日本書紀神功皇后の巻で「皇后南紀伊国に詣りまして太子に日高に会いたまい云云」とあり、中古に至りて続日本紀に大宝三年五月阿提・飯高・武漏三分銀を献ずと見ゆ。飯高は日高の事で猶同書、天平宝字八年の条にも日高郡の文字がある。日本霊異記にも日高郡・日高潮の名も見え、和名抄に至って財部の名があり、新宮文書建唐二年の院宣下に、薗・宝郷と出てくる。
財部は当時に於ける日高平野大部分における総名で、更に日高平野の発達に伴い薗郷の出現を見るに至ったと思われる。 即ち肥沃なる平野を擁して豊饒なる農業地であったに違いない。 この豊饒なる部落を控えて陸路交通の中心とする小松原・水運の便をもつ藤井が物資の集散地として出来たのである。 (「葵園養考」文:芝口常楠氏)

また、「日本書紀」別項には、『仁賢六年(493)秋九月、日鷹吉士(ひたかのきし)を高麗(こま:高句麗)に使わして、技術者を求めさせた。日鷹吉士は難波吉士と同族で、日鷹(紀伊国日高郡)の渡来系豪族だ。水軍を擁し外交に力を発揮した。同年、この年に日鷹吉士は高麗から帰還し、技術者を連れてきた。』とある。吉士とは高句麗の官人をいう。「日高」地名の語源は「朝鮮系の豪族・貴族が住んでいるところ」で間違いない。

日鷹吉士
「日高」の地名の語源として一説がある「日鷹吉士」。「大和朝廷の成立・発展期において紀氏一族が強力な水軍を率いて大和朝廷の朝鮮ヘの外征・侵略に活躍したことは『日本書紀』の記述により明らかであるが、紀氏の本拠を通説にしたがって紀伊と考えるとき、郷土関係で注目されるのが゛日鷹吉士″という人名である。雄略紀によると、雄略7年大和朝廷は吉備上道弟君に新羅を討たせ、これに歓因知利をそえて百済に手技を求めさせたとき、弟君は百済に留まり、父の任那国司吉備上道臣田狭とともに大和朝廷に離反の計をめぐらした。しかし弟君の妻は忠心が厚く、夫の弟君を暗殺して自らは百済の献じた手技を率いて、大嶋(百済)に滞在した。そこで天皇(雄略)は日鷹吉士堅磐固安銭を遣わして復命をさせ、百済の手末才伎を倭国礪広津に安置したことが記されている。
この他にも雄略紀9年2月条には゛難波日鷹吉士″仁賢紀6年9月条・継休紀6年12月条に゛日鷹吉士″の記載がある。
この日鷹吉士堅磐固安銭についでは諸説あり、古典文学大系『日本書紀』頭註によれば、堅磐と固安銭とする説、雄略9年2月条に難波日鷹吉土とあるところから日鷹を人名と見、堅磐を筑前国穂波軍堅磐郷という地名と見て、難波吉士日鷹と堅磐固安銭とする説、また吉士はもともと新羅のカバネであるところから堅磐の本名を固安銭とする説がある。
日本霊異記 中巻
大海に漂ひ流れて、敬みて尺迦仏のみ名を称ヘ、
命を全くすること得る縁第二十五
長男紀の臣馬養は、紀伊の国安諦の郡吉備の郷の人なりき。小男中臣の連祖父麿は、同じ国海部の郡浜中の郷の人なりき。紀の万侶の朝臣は、同じ国日高の郡の潮に居住し、網を結ひて魚を捕りき。
馬養・祖父丸のふたり、傭賃して年の価を受け、万侶の朝臣に従ふ。昼夜を論ぱず、苦しび駈ひ使はれ、網を引きて魚を捕る。白壁の天皇のみ世の宝亀六年の乙卯の夏の六月十六日に、天にはかに強き風吹き、暴き雨降り、潮に大水脹ひて、雑の木を流し出す。万侶の朝臣、駈使に遣りて、流るる木を取らしむ
長男・小男のふたり、木を取りて桴を編み、同じ桴に乗りて、拒逆ひて往く。水はなはだ荒く急やかにして、縄を絶ち桴を解き、潮を過ぎて海に入る。ふたりおのおの一つの木を得て、乗りて海に漂ひ流る。ふたり無知にして、ただ「南無、無量の災難を解脱せしめよ。尺迦牟尼仏」と称誦し、哭き叫びて息まず。
その小男は、逕ること五日、その日の夕の時に、淡路の国の南西田町野の浦の、塩を焼く人の住めるところに、わづかに依り泊てぬ。長男馬養は、後るること六日の寅卯の時に、同じところに依り泊てぬ。
そこの土人ども見て、来るよしを問ひて、状を知り愍び養ひ、そこの国の司にまうす。国の司、聞き見て、悲しび賑みて糧を給ふ。小男歎きていはく、「殺生の人に従ひて、苦を受くること量なし。われまた還り到らぱ、それまた駈ひ使はれて、なほし聿に殺生の業を止めじ」といひて、淡路の国の国分寺に留まり、その寺の僧に従ふ。
長男は二月を逕て、本の土に帰り来る。妻子見れぱ、面目漂青かなり。驚き怪しびていはく、「海に入りて溺れ死に、七七日を逕て、斎食をなし、報恩することすでにをはりぬ。思はぬ外に、なにぞ活きて!還り来れる。もしはこれ夢か。もしはこれ魂か」といふ。馬養、妻子に向ひて、つぶさに先の事を陳ぶ。ここに、妻子聞きて、相悲しび相喜ぶ。馬養、心を発し世を厭ひ、山に入り法を修しき。見聞くひと、奇しびずといふことなかりき。海の中、難多しといへども、命を全くし身を存ヘしは、まことに尺迦如来の威徳にして、海の中に漂へる人の深信なり。現報すらなほしかくのごとし。況むや後生の報は。夫れ銭財は、五家ともに有つ。なにをか五家といふとならぱ、一つには県官にして非理に来り向ふ、二つには盗賊にしてなほし来りて劫み奪ふ、三つにはたちまちに水のために漂ひ流さるる、四つにはたちまちに火起りて焚焼くることを免れぬ、五つには悪しき子理なく費し用ゐるをいふ。そのゆゑに菩薩は歓喜びて布施したまふなり。
日本霊異記 下巻
賎しき沙弥の乞食するを刑罰ちて、
現に頓かに悪死の報を得る縁第三十三
紀の直吉足は、紀伊の国日高の郡別の里の椅の家長の公なりき、天骨悪性にして、因果を信けず。延暦の四年の乙丑の夏の五月に、国の司、部内を巡行して、正税を給ふ。その郡に至り、正税を下ひて百姓に班はりき。
ひとりの自度ありき。字は伊勢の沙弥といふ。薬師経の十二薬叉神のみ名を誦持し、里を歴りて食を乞ふ。正税を給ふ人に就きて稲を乞ひ、その凶しき人の門に臻りて乞ふ。その乞ふひとを見て、乞ふ物を施さず。その荷ヘる稲を散らし、また袈裟を剥りて拍ち逼す。沙弥、その別の寺の僧坊に逃げ隠る。凶しき人遂に捕ヘて、さらにおのが門に将て、大石を挙げ持ち、沙弥の頭に当てて迫めていはく、「その十二薬叉神のみ名を読みて、われを呪縛せよ」といふ。沙弥なほし辞ぶ。凶しき人なほし強ふ。強ひ<逼むるに勝へず、通読みて逃ぐ。しかして後に、久しくあらずして、地に躃れて死にき。
さらに疑ふベからず、護法の罰を加ふることを。自度の師なりといへども、なほし忍の心もて視よ。隠身の聖人、凡の中に交りたまふがゆゑになり。灼然く過なきを慇ろに探り、毛を吹きて、疵をぱ求むベからず。失を求むれぱ、三賢十聖にも、失の誹るべきあり。徳を求むれぱ、法を謗り善を断てるものにも、徳の美むベきあり。
このゆゑに十輪経にのたまはく、薝匐の花は萎るといへども、なほし諸の花に勝る。破戒の諸の比丘は、なほし諸の外道に勝る。出家の人の過を説くは、もしは破戒もしは持戒も、もしは有戒もしは無戒も、もしは過あり、もしは過なきも、説く者は万億の仏身の血を出すに過ぎたり」とのたまへりり今この義解にいはく、「血を出すも、仏道を障ふること能はず。僧の過を説く時は、多くの人の信を破壊し、その煩悩を生じ、聖道を障へむ。このゆゑに菩薩は、その徳を求むることを楽ひて、その失を求むることを楽はず」といへり。
像法決疑経にのたまはく、「未来世の中に、俗官、比丘をして税を輸さしむることなかれ。もし税を奪ふものは、罪を得ること無量ならむ。一切の俗人は、三宝の牛馬に乗騎ること得じ。三宝の奴脾とまた六畜を撾打つこと得じ。その三宝の奴碑の礼拝を受くること得じ。もし犯す者あらぱ、みな殃咎を得む云々」とのたまへり。
また経論に説くがごとし。「慳心多きひとは、この泥土といへども、金玉よりも重みす。恡貪の人は、糞の土を乞ふを聞くも、なほし恡惜を懐く。財を憎しみて布施せず、蔵し積みて人の知らむことを恐る。身を捨て手を空しくして、餓鬼の中に去き、飢ゑを受けて寒心す」といへり。
夫れ銭財は、五家ともに有つ。なにをか五家といふとならぱ、一つには県官にして非理に来り向ふ、二つには盗賊にしてなほし来りて劫み奪ふ、三つにはたちまちに水のために漂ひ流さるる、四つに はたちまちに火起りて焚焼くることを免れぬ、五つには悪しき子理なく費し用ゐるをいふ。そのゆゑに菩薩は歓喜びて布施したまふなり。‥とある。