羽山家と熊楠

南方熊楠と羽山家は深い交流がありました。そのことは多くの書籍で紹介されています。

「熊野誌 第三十七号」より『南方熊楠と日高』平成3年、吉川寿洋氏。
日高郡は南方のことをどう取り扱って来たかというと、彼に関わりの深い土地柄であるにもかかわらず、特別な動きは全くなく、きわめて平静な状態にあるといわざるを得ない。そこで、日高の地もさまざまな意味で南方熊楠とすこぶる関係深い所であることを是非とも知つていただきたいものと思い、以下にいくつかの事柄を取り上げて、 彼との決して浅くはない関わりを追究してみることとした。その一つは南方と北塩屋の羽山兄弟との関係であり、彼の父の生家である向畑家との関わりである。 また矢田村入野に鎮座していた大山神社の合記反対に関係する問題やそれに関連しての 『日高郡誌』編集主任の森彦太郎その他の日高人と熊楠との交流についても触れてみたいし、さらには志賀村(現日高町)小池の親友野尻貞一のことなどにまで述べ及ぶことが出来たならと考える。

1、羽山兄弟と熊楠
熊楠の父は紀州日高郡の出身である。いま少し詳しく言うなれば、日高郡は入野村(のち矢田村入野となる)の向畑庄兵衛の次男として生まれた。熊楠によると向畑家は代々庄屋をつとめていたということである。だが、既刊の『川辺町史』史料編や編纂質で集められた諸資料の中にもそれを証明するものは含まれていないということなので、真偽のほどは不明で’ある。熊楠の父弥兵衛は、一時近隣の町御坊の豪家に奉公するが、間もなく和歌山に出て働くこととなる。熊楠はこの弥兵衛の次男として慶応三年四月十五日和歌山城下橋町に生まれた。母はスミ、西村氏。熊楠は和歌山中学を経て、大学予備門に入学するが、これを中退。 渡米するまでの一時期何度か日高郡を訪れている。明治十九年四月の訪問の折はいったん父の生家向畑家に身を寄せ、そこから日高川河口に近い塩屋村(現御坊市塩屋町)北塩屋の羽山繁太郎・蕃次郎兄弟の家を訪れており、四月十九日から二十五日まで繁太郎とともに鉛山温泉(西牟婁郡白浜町)に遊んでいる。その時のことは、彼の日記に詳しいが、また「日高郡記行」(平凡社版『全集』十巻所収) と後年の岩田準一宛書簡を継ぎ合わせることにより、その全貌をかなりリアルにうかがうことが出来る。「明治十九年春二月、予、疾を脳漿に感ずるをもって東京大学予備門を退き、帰省もつばら修行を事とす。羽山繁太郎君は倶に白頭を吟ずるの友なり。親しく書を寄せて日高郡に遊ぶを促すこと五回。 しかして日高郡入野村は実にわが父出生の地なり。余、遊意ここにおいて決す」に始まる「日高郡記行」によると、四月六日朝家を出発、湯浅の広久に宿泊して、翌七日、河ノ瀬嶺で、入野より迎えに来た向畑庄三郎(庄兵衛の長男である半右衛門の息)に会う。庄三郎に行李を托して藤滝嶺を登り、次に下って入野に着いたのは、夕刻の四時であった。八日朝、雨の中を友人野尻貞一の父利助が日高郡志賀村小池より来訪。また入野在住の貞一の従弟花田米吉も訪ねて来る。この米吉及び庄三郎を伴って、同日、日高川を渡り、和佐村の生蓮寺に行き、所蔵するところの「石品を観る」とあるが、この石類は、昭和二十八年七月の日高川の氾濫による大水害のため甚大な被害を受けることになる。 だが、今もかなりの数のものが同寺に保存されている。「日高郡記行」は次の九日の記事「朝起、花田与吉氏来たる。談話畢りて庄三郎氏を東道とし川を渡り」というところで終っている。日記によると渡河ののち和佐村の権助穴に蝙蝠をとるためにおもむいたとある。十日には小池の野尻宅を訪い、一泊。北塩屋の羽山繁太郎を訪うのは翌十日のことである。
岩田準一宛の最初の南方熊楠書簡は、昭和六年八月二十日に執筆された、すこぶるつきの長文である。岩田の質問を受けて「浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別のもの」であり、「もし今の世にも果たして浄の男道の一例だもあらば示せと仰せらるるなら、小生身すなわちその一例なりとあえて言わんがために永々とこの状を走り書き」したものであるとして、羽山兄弟及びその妹達に言及している。 同書簡によると、昭和三年十月十八日、東京より来遊の上松本翁をともなって日高郡妹尾官林に行き、上松が帰ったのちもひとりふみとどまって菌類の写生を続け、翌四年一月五日に「近来稀なる青天」であることを利して橇に乗って下山している。麓の寒川村串本到着後、ここで針金を入れた草履を二足つくらせ、難路を川又官林の官舎まで行歩して八時半過ぎに到着する。翌朝九時発の自動車で御坊町に向い、北塩屋で下車。「これより四十四年前(今年只今より四十六年前)、小生東京にありしがふらふら病いとなり、和歌山へ帰り、保養のため父の生家が日高郡にあり、.その親属またこの郡に散在するをもってそこここと遍歴せんと日高郡に来たりし。 その時この北塩屋に高名の医師羽山氏なる豪家あり。その家に当時五男あり、その長男はし繁太郎、二男は蕃次郎という。これは御存知通り、『筑波山は山しげ山繁けれど、思ひ入るにはさはらざりけり』という歌により、苗字のは山に因みて付けたる名と察す」と続く。筑波山の歌は新古今集、恋一、一〇一三番に源重之作として入集している。また、重之集三〇八番にもみえるが、これには「は山」の部分が「さやま」となっており、これだとちょ’つと具合が悪い。それはさておき、この羽山家のすぐ近くにある塩屋王子は、定家の『熊野御幸記』にも載る旧社で、俗に美人王子と称せられ、この美人王子にあやかってか、羽山家の五人の男子いずれも美男であり、わけても長男と次男は「属魂の美人なり」と熊楠は称讚している。
長男繁太郎は熊楠東京在住の折「勧めて上京せしめ」たものの、東大入学のための勉学にいそしむあまり、肺を悪くして帰郷。実家で療養中のところを熊楠が訪ねて行き、いっしょに鉛山温泉に遊んだことについては、前述の通りである。長男がかくなるため次男蕃次郎に「東大に入るべしとすすめ、そのことに決し」たので、熊楠は和歌山から急速塩屋村に赴いて、 一泊ののち次男を伴って和歌山まで行き、県出身学生たちといつしょに東上せしめたと語る。明治十九年九月二十一、二、三日のことである。この頃、熊楠は渡米を決意、「日高郡の親族二、三の方へ告別に」出向くこととなり、鹿ガ瀬を越えて小池村野尻宅に行き告別をすまし、羽山家に宿泊したのが十月十五日。日記には「此夜月色清くして昼の如し」と、特に月明の一ことを印象深げに記している。二階に寝ていると、突然騒ぎ出したので「何ごとかと聞くに、医師(羽山氏)の妻がこれまで五男までつづけて挙げたるに (十九歳と十六歳と十三歳と六歳と三歳)、また今春より孕みありしが只今産の気がっきたりといいののしる。これでは到底今夜は眠ることはなるまじと思い、二階の窓をあけて海上を見渡す。 鰹島といえる岩礁のみの小島に銀波打ちかかり、松風浜辺に颯々として半ば葉隠れに海上の月を見る。 その風景何とも口筆で述べられず」(岩田宛書簡)と一種の美文で綴られた光景をながめて、行く先々のことを思い、少々感傷的になった熊楠の耳に「今度は女の児が生まれた」という声が響いた。午前四時のことである。「すでに児が生まれた上は、吾輩一時間止まれば一時間の厄介をこの家にかくることと思い、 朝霧四塞してまだ日光も見ぬうちに急ぎ辞別して出立」したところ、長男繁太郎は日高河畔の天田まで送り来て、そこで別れることになるのだが、「おのおの影の見えぬまで幾度も立ち止まりて總に別れ了りし」と、その時のことを想起して記している。この時生まれた女児が信恵で、のち同じ北塩屋の山田栄太郎に嫁すこととなる。現在、御坊火力発電所が設置されたため文中の理島は北塩屋からは見ることが出来ない。日記には「朝十一時過羽山氏に訣る。餞するに紫金錠を以てせらる。繁君、天田迄送らる。」とある。先の書簡文との間に少々の差違を見出すが、文章の綾というものであろう。このあと藤井の太田安松を訪い、入野の向畑家に落着くが、この際、楠本喜太郎、佐七、花田与吉、古田善兵衛に別れの挨拶をしており、夜には、彼の所を古田幸左衛門が訪れている。 翌十七日朝八時過ぎに和歌山へ向かう。途中まで向畑庄三郎が送って行ったようである。 ‘
熊楠が渡米準備のため十月下旬に上京し、 北京市号という名の客船で横浜を出発するまでの二箇月余りの間に、 多くの東京在住和歌山県出身の学生仲間に出会って旧交をあたためているが、 羽山蕃次郎にも何度も出会っている。のみならず、彼の所にそれこそ何度も泊つている。そして十二月一日には彼といつしょに写真を撮つている。十二月五日、湯島天神内魚十での留送別会出席者のうち日高郡出身者は、右の羽山の他には野尻貞一.と木下友三郎の両名である。結局、二十二日、シテイ・オブ・ぺキン号に乗船する熊楠を見送ったのは、羽山、野尻と弟の常楠の三名であった。

熊楠は米国から英京ロンドンに渡り、 都合十四年余’りの在外生活を経て、まことにみすぼらしい恰好で日本に帰って来たわけだが、その時既に羽山家の息子たちは第四男一人を残して他は全てこの世を去っていた。夭折した羽山兄弟のことを記した菌田宗恵(旧姓浅井)撰文の碑が現在北塩屋の羽山家の墓地内にたてられている。
羽山家と熊楠との交際が復活するのは、熊楠が那智勝浦から田辺に移って妻を娶り、男女二人の子供をあげてからのちのことで、大正二年以降である。岩田宛書簡には次のようにある。「田辺の宅にありて炭部屋の内に顕徴鏡をおき、昼も夜も標本を調査するうち、一日妻が当時三歳になる娘を伴い牛肉を買いに出で帰りての話に、 この宅の近所の米国女宣教師(レヴィツト女史のこと)の宅に十八、九.の洵に紅顔のおとなしい美人あり、 毎日近町の醤油屋の隠居に生花を習いに之く。いかなる家の娘なるらんと思いおりしに、只今肉を買いて帰る途中でわれらに追い付き、娘にこの煎餅一袋くれたかでら、貴娘は何の縁あってと問うに、日高郡塩屋浦の羽山家の出で、兄どもは自分の生まれぬ前にいろいろと先生の御世話になりしが、不幸にして世に即けりと話されたとのこと、そう聞けばまことにかの兄どもにどこか似ておる。よって面会していろいろと聞く」に、第四男が家を継いでいるとい.うことが分かり、 この第四男と文通を始めたのが機縁である。宣教師宅にいた娘というのは羽山家の次女李(すえ)で、のち御坊の材木商中川計三郎に嫁す。-我は、熊楠が妹尾官林からの帰途、川又官林を経て北塩屋の山田家に立ち寄つた時、男女二人の子供をつれて、翌一月七日の早朝に御坊から駆けつけており、「山田の子供、男二名女三名、中川の子供、男女各一名、〆七人目見えに来る。眼白鳥(めじろ)が柿を食わんとて押し合うごとく、どれが姉だか、どれ.が誰の子だか分からず。山田氏、紙に名と齡を記し来たり、佐和山の城で石田三成が盲目の大谷吉隆に家老どもを引き合わすごとく、小生の前へ子供をかわるがわる出して、その名と齡を唱う。ちょっと小学の卒業免状授与式のごとし」と熊楠は記している。 この種の比喩、特に前者のような比喩は、熊楠の最も得意とするところで、他の書簡においてもずいぶん多用している。
山田家を訪れた熊楠を入口で待ち迎えたのは「四十五歳といい条三十五、六に見える明眸、前歯を金で項め、まことに愛敬ある中柄の主婦」信恵で、「これが四十四年前に一泊した翌朝生まれた女の子と問わずして知れた」と熊楠は述べている。信恵は「言を発せず家内へ案内し、昨夜氷雪で踏み固まった針金入りの草履をぬがせ、これは一代一祠つておくべしとて取り片付くる」と続くが、こ.の草履は山田家の家宝として今に大切に保存されていて、草履を包んだ新聞紙には墨で「其折めされました草履は之で有ります。記念の為長くとめおく」と書かれている。
総じて、ここにみられる熊楠の羽山兄弟の妹、信恵・季に対する思い入れは「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ思ふ」という古歌のこころに同じい。熊楠と山田家一族との記念写真が終って、季は「夫が大阪へ旅立つからとて辞し去るに臨み、また何か」と所望したので、熊楠は「中川の末永かれと祈るなり」という句を贈っており、山田家にも所望するにまかせて、何首かの歌を残している。彼が自動車で田辺の自宅に向かったのは三日目の夕刻のことである。だが、これで山田信恵、中川季・の羽山兄弟の妹たちと熊楠との縁が切れてしまったわけではない。 むしろ二人の姉妹と彼との関係は次の一件によって末長く人々に記憶されることとなる。昭和四年六月一日昭和天皇が軍艦長門で田辺湾に来臨され、熊楠は御進講を行うのであるが、御進講を無事終えることが出来るように念じてほしいと熊楠は山田信恵に依頼する。「御臨幸の前に小生一書を山田の妻(名は信恵)に遣わし、四十四年前の春、尊女の長兄と軽一制を仕立てかなやま鉛山温泉へ渡りし、ちょうどその舸が渡りし見当の所に、今度御召艦がすわるなり、付いては一つの頼みあり、いささかも無礼不慎のことあっては一族知人ど’も一般の傷となる。仏経に、慧は男、女に勝れ、定は女、男に勝るという、自分は何を信ずるという心がけもなければ、かかる場合に神仏を祈念しても誰かはこれを受けん、そこがそれ深川の小唄にもある、『むかし馴染のはりわいさのさ』で、尊女の長兄次兄とずいぶん隔てぬ中だったから、 尊女かの二人に代わりて当日、 熊楠事なく進講を済ましてくるればこれに越した身の幸いなしと、一心不乱に念じくれよ、熊楠は自分に失態あっては尊女の一生に傷を付くるものと思うて、いかな気に入らぬことあるも無事を謀るべし」と熊楠は岩田宛長文の書簡で依頼の内容を詳しく記している。それに対して信恵から返事があり「空蝉の羽より軽き身を持つてそんな大事に当たり得るとは万思わねど、御申し越しの通り全力を尽すべし」と書かれていたので、熊楠は安心して進講準備にかかった。.当日「次へ次へと標品の出るに任せて奏上して退きしまで、例の鼻をすすったり咳嗽の一つも出さず、足の一歩も動かさずに事のすみしは、全くラ・ダム・メ・パンセー(わが思いの貴婦)の一念が・届いたものと殊勝さ限りなく感じた」と熊楠は述懐している。姉妹は彼の依頼に立派に応え、「家にあって無事を念ずるよりはその近辺へ出かけて声援否念援すべしとて、 姉妹二人長途を馳せ来たり、御召艦の見ゆる浜辺に立って御召艦出立まで立ち続けおり、いよいよ煙立ち波湧き出すを見て帰宅の道に就いた」という。 信恵の息偉平は、ある時次のような意味のことを語ってくれた。「わたしの母は南方熊楠のことを神か仏のごとくあがめていた」と。この心があってはじめて先の行為を生み、熊楠の御進講が無事に終りえたのだと思われて来る。