熊野古道 日高編

熊野詣では10世紀初旬に始まり、11世紀に最盛期を迎え、その期間は250年も続いた。13世紀後半になると皇族の熊野詣では減っていき、徐々に衰退していった。天皇の熊野御幸の尤もはっきりしているものは宇多上皇の延喜七年(907)に初まり、次は花山法皇は二度、次は白河法皇の寛治四年(1090)正月を初度として十度に及んでいる。後鳥羽上皇の建仁元年(1202)の御幸より百二十年前となる。

新古今集より
白河院野に詣で給えけるに御供して、 塩屋の王子にて歌よみ侍けるに
立ち登る 塩屋の煙 浦かぜに  なびくを神の 心ともがな   徳大寺左大臣

道成寺「熊野古道」の編纂『道成寺から塩屋王子』

天仁元年(1108)藤原宗忠公の中右記熊野詣には、道成寺の前で日高川を渡るとあり、建仁元年十月の後鳥羽上皇の御幸記には小松原御宿、一部は川を渡って岩内に宿所をとるとあり、応永卅四年の作といわれる旧国宝道成寺縁起には、「船頭をばちけしといいて岩内にありける云云」とあり、之によって平安期より鎌倉期にかけて館野古道は、富安より吉田八幡山の東を廻って小松原に出で、日高川を岩内に渡ったもので、岩内に王子社のあったのも頷かれる。其後、日高平野の発達と共に日高川の提防も延び、熊野街道も八幡山の西に変更し、廻って日高川の渡し場も出店に移り、更に名屋(神明提)に延びていった。

富安王子 ~ クハマ王子 熊野旧道は富安王子の前より南下して小松原に入るのであるが、熊野古道は東南に進み富安川を渡って八幡山の東麓に出で、クハマ王子に至る。

クハマ王子 ~ 小松原宿 元々の王子社は小松原より来る道成寺街道の八幡山麓につき当った左側のところに南面して建てられていたことは、和歌山県聖跡の地図は十数米も西にあった。猶その当時川端に沿うた一枚の地面は田であった外は雑木林で山裾、山麓の道路は旧王子社の前を西に通ったので、聖跡にいふ処の王子趾の後ろの開墾後つけたものである。

小松原宿 御幸記にクハマ王子より小松原御宿に泊られた、小松原御宿というのは藤田町吉田万楽寺の南方御所之瀬というところと伝えられている。

小松原宿 ~ 岩内王子 中右記に日高川を渡るに河水大に出で下向の女房両人河岸に立ってためらっていた。何人なるかは知らぬが籠を遣して渡してやり、菓子などを送ってやったとあり、常ならば女の人でも徒徒したようである。出島あたりから岩内へ斜に川原を利用して通行そたと思われることは、多人数のしかも相当に輿もあること故、狭い路より河原を利用することは便利で且近路となろう。

岩内王子 岩内王子の所在地は紀伊続風土記にも『河流変遷し岩内王子の社地滅没して後世小社を茲に建つ』と云っている。古えの岩内王子の減没したのは、元和元年の大洪水であったと。旧御坊町大字名屋(元山田荘名屋浦)が全滅したのも、この時であった。大正年間この王子趾の少し下流の川底において、根付の樟の大木を堀り出したことがあり、猶幾本かの埋没せるものがあるとは古老の語るところ、恐らくはこの王子の杜の木と思われる。ここに近く真宗明鏡寺があるが、この寺院は元真言宗で吉祥寺といったのを、永正八年改宗して寺名を改めたものであるが、これは岩内王子の別当寺であったものであろう。

岩内王子 ~ 塩屋王子 岩内が平安朝より鎌倉室町時代にかけて日高川の渡り場であったことは、旧国宝道成寺縁起の文にみることが出来る。清姫(縁起にはこの名なし、真砂庄司清次の後家である。)安珍を追うて日高川を渡るところに「舟渡しをばちけしと申ていわうちにありけると日記には慥に見えたり。」とある。子供の手鞠歌に「ここから鐘巻十八町……」とあるのも出島あたりからの距離である。
岩内より塩屋に往く処中右記に。
日高川水大に出で行路を妨ぐ云云仍て頗る東細道に次く小山の上
往道二十町許り塩屋王子社に至り奉幣
とあり即ち平生なれば狼烟山の麓まで川原を歩いたかと思われる。御幸記には只「山を越えて塩屋王子」に参るとあるは、狼烟山の西の尾根を越したのであろう。今日の天田よりの通路は、後世出来たもので昔は琴の橋から天田部落をつくっている丘阜を通ったものである。
徳川時代末期の日高川渡しは元名屋浦の船附神社の処より、今の琴の橋の所に渡ったのは本街道であったが、一般人は増水でない限り、名屋より川を渡り、中洲川原を下って、狼炳山の西麓において熊野川を渡って本街道に出た。ここを小渡しと云って、これが本街道の観を呈していた
という。

塩屋王子 王子社に於て別当寺のつかぬものは先ずなかろう。殊に有名な神社ほど立派な寺院がついていた筈である。塩屋王子に於ては今鳥居の建てられている広場は、寺院趾であることには間達はない。近時、熊野街道の数度の修覆幅拡張のために、ここの広場も西より南にかけて随分せぱめられ、これにつづく山麓も削りとられた事は今日の人もよく知るところであろう。同地円満寺は元大行寺と称して真言宗であったが、或はこれ別当寺であったかとも考えられる。今の石段はもと王子橋の正面にあったと思われる。寺院の趾地を利用する為にここに移したのであろう。

熊野御幸路に於て藤白坂より海を眺めたものの、山又山を越え湯浅に至って海に接し、海の眺めに大宮人を喜ばしたことは、御幸記には藤白に於て「眺望遠海興なきに非ず」と記し、湯浅に於ては「湯浅入江の辺松原の勝奇特なり」と称えている。これからずっと田辺に至る間海岸に沿える道にて甚だ楽しい眺めであったことは、中右記に「塩屋王子に至り奉幣す、上野坂上に於て祓し、次に昼養、次に伊南の里を 過ぎ次にいかるが王子に奉幣……切部王子社に参る、日入るの間切部庄下 人小屋に宿る、今日或は海浜或は野径を歴、眺望極りなし、遊興多端也」とあり、御幸記には「この宿所に於て塩ゴリをかく、海を眺望するに甚雨に非ずんば興あるべきなり」 と書かれている。又正治二年十二月三日後鳥羽上皇三度目の熊野御幸の時、切目宿にて「海辺眺望」の題下によめる。「漁り火の光にかはる煙かな灘の塩屋の夕ぐれの空」これらによって大宮人のいかに海に親しみを感じられていたか想像に余りがある。

後鳥羽上皇は熊野御幸は二十九度の多きに及び、それに御幸記の如き詳細な道中記録があるので一般に親まれ、伝説として衆耳に入り易い所があるので、熊野古道に於て聖蹟と云えば、多く後鳥羽上皇を引合に出している。これを敢て塩屋王子について云うのではないが、この王子に尤も崇敬の誠を捧げていられる記録をたどると、寛治四年正月白河上皇の熊野御幸に際しての事で、王子の御前に参拝した多くの人達の歌にあらわれている。天皇の熊野御幸の尤もはっきりしているものは宇多上皇の延喜七年に初まり、次は花山法皇は二度、次は白河法皇の寛治四年正月を初度として十度に及んでいる。後鳥羽上皇の建仁元年の御幸より百二十年前となる。

上野王子  上野は熊野参詣道の主要な処であった。中右記天仁元年藤原宗忠郷の熊野参詣記には「上野坂上に於て祓し次に昼養」とあり、当時王子社はなかったが、鎌倉時代に於て参拝休憩に便を与えるために王子社を建てられたと見る。御幸記に「次に上野王子野径也」とある。
熊野参詣の盛になるにつれて人家も殖え道路も便利の地に変更されたので、御幸記時代には上野王子は新道筋と離れて野径に存在することになったのである。今日上野王子証としては小字浜端にあるが、御幸記の記載に見ても此処は旧位置ではないことは慥かである。続風土記に仏井戸(土地の人は井戸仏と称して仏井戸とは云わない。恐らくは風土記編著者の考えによったものであろう)の地が、旧王子趾であるとしている。
和歌山県聖蹟にはこの地の小名に王子に関係ある名も見えず、続風土記は何故にここが王子趾であらねばならぬかの、考証すべき材料は何物もない。ただ小栗街道に沿うてこれを求むるならば、この仏井戸のあるのが唯一のものであるとしている。筆者の考えは矢張りこの処旧王子趾であるとするものであるが、和歌山県聖蹟の考え方とはちがっている。続風土記にしても、和歌山県聖蹟にしても矢鱈に小栗街道を云為しているが、小栗判官の熊野の温泉への通行路という意味であるが、小栗判官は伝説上の人で、よしそれが実在の人としても鎌倉中期の人である。鎌倉中期より以前に属する御幸記に於て、己に野径となっている道を、小栗判官が車にのってかよわい女の手にひかれて、態々道のわるいすたれた道を歩いたとはどうしても考えられない。今日小栗街道と称するものも只の云い伝えであれやこれやの想像の加えられていることも見のがせない。只中右記に坂の上で祓をした神聖な処として王子社が出来たとすれば、この坂の上である。
今一つこの地名を当前寺と称し、今の極楽寺の前身であった寺院のあった所という。仏井戸は独立したものではなくて当前寺境内の一つの参拝所であったのが、当前寺の移建後これがここに残って信仰者を集めているのであろう。井戸仏というのは石造の仏像が井戸の中に沈められているが、年に一回これを出して洗い清め、また井戸の中に入れると云う。側に箭所があって信心祈願の人は、ここに通夜して祈りを捧ぐるのである。続古今集に入道前太政大臣(藤原実氏?)として。
昔見し野原は里となりにけり数そふ民の程は知らねど
これは建長二年の歌と思われるので鎌倉の初期には、上野も大分家ができていたようであるが、大治五年の鳥羽上皇熊野御幸の帰途十二月十八日上野に泊らせられ、右衛督の宿所が焼亡したことが書かれている所を見ると、この頃は上野も相当栄えていたものと思われる。中右記の記録より廿余年の後である。

※「熊野古道に王子址を尋ねて」芝口楠常氏 より抜粋


「紀伊国王子社略記」に見る熊野王子考 日高編  『馬留王子~千里王子』

馬留王子
仝村小名鹿ヶ瀬にあり。この辺より坂道嶮岨にして馬上にては行かたん。御幸の時このところにて馬を留られし。という故に馬留の名あり、或は当社を沓かけ王子に配したるは誤なり。右御幸記に見えず。

沓掛王子
日高郡原谷村にあり。御幸記に越しヽのせの山参沓掛王子とあるはこの社ノ事なり。今、鍵掛王子とも云う。

内畑王子
仝 萩原村にあり
内の畑と云うにあるを以てしか呼へり。
御幸記ニ十月十日暫休息山中小食於此所上下伐木随分造付之云云とあるこれなり

高家王子
仝村にあり。高家王子若一王子又東光寺王子という。萩原高家池田荊木原谷五ヶ村の産神なり。源平盛衰記日権亮維盛は蕪坂を打下り鹿瀬山を越過て高家の王子を伏拝み日数へて漸く経る程に千里の浜も近付

田藤次王子
仝 下富安村にあり。今善童子王子権現という。荘中四ヶ村の氏神なり、土人出王子或は出童子ト称ス御幸記ニ此辺高家云云次参王子田藤王子云云次又愛徳山王子とある田藤次は善童子と称近く道路の 順にもかなえば此社ならん。古は大社にして湯川家より社領一町六段神主ノ領一町三段九畝余ヲ寄附せしニ豊太閤南征以後没収すという。

愛徳山王子
仝 吉田村にあり。御幸記にあり

九海士王子
仝村にあり。この所は古の熊野街道なり。御幸記にくまは王子と見えたり。九海士の義詳ならす。桑間なとの義に土地ノ小名なるへし。世人或は九を略して海士王子と云うより道成寺の本尊をかつき上し海郎を祭りしなりと云う。附会の説神を誣というへし。

 岩内王子
同 岩内村にあり。今世久志波王子という。 岩内王子御幸記に見えたり。

塩屋王子
仝 北塩屋村にあり。御幸記に参塩屋王子此辺又勝地有祓とある。即、この社なり。今境内に御所の芝と云う所あり。後、鳥羽院の行在所の跡という。大塔宮熊野に潜行し給いし時、此所にて一宿し給うという。今、碑石を建つ。碑文下に録す。
千載集
白河法皇熊野へまいらせ給ひたる御供して塩屋の王子の 御前にて人々歌よみ侍りたるに
後二条大臣
思ふこと くみてかなふる神なれは 塩屋に願をたつるなりけり
新古今集
白河院熊野にまうて給へりけるに御供の人々、塩屋 の王子にて歌よみ侍りけるに
後徳大寺左大臣
立ちのほる 塩屋のけふり 浦つせに  なひくを神 の心ともかな

塩屋王子祠記
塩屋村在日高川之海口昔時煮塩為業焉因名今村南北其在北者山岡東來西北臨日高川山岡登絶数十磴上平垣而樹木鬱蒼神廟在焉称古無所見不知其所祠在山岡可以遠眺望放聖駕幸於熊野毎為駐之処白河法皇之幸使公卿賦和歌於祠前建仁元年後鳥羽帝之幸御幸記所謂此処亦勝地是也自後至弘安四年駕於茲者数帝御幸記所矣元弘之乱大塔宮避雉遁干熊野亦投宿干此盖聖駕駐騨之後屋宇猶存也今也屋宇皆癈而草樹蒙密之中遺跡独存焉故土人呼日御所之芝謂結縷也地形東連山戀西海臨畔淡阿諸山隠々乎蒼波杳渺之中其北則象嶺回擁如半環蒼翠浚虚麗?西走其間一大海湾若開鏡面此古之地形也数百年之久砂土填海川流亦移海湾変而沃野数里村落鱗集出疇区分開廓遠大?曖於雲烟之中翠松一黛弥漫於海畔数里之間山容水態四時極其濃媚花晨月夕千歳同其奇観誠可謂一郡絶境矣嗟乎人之居世老幼異思貴賤分趣観物之情固不能同登茲此岡也数帝一王遊予跼蹐之蹤依然猶存焉則豈得無意哉将迫聖駕欣賞之跡縦其心自魂飛神怡朗誦微吟楽而忘帰則将弔帝子於遺跡欽其英風気烈流梯歔欷猶有余概即又将達観古今一視萬類滄桑之変不入於心悲歓之跡不?於?子子焉洋々焉以遊思於物表耶樹碑勒文後之観者其有所択焉
天保四年癸己九月

上野王子
仝 上に上野王子野径也とあるこれなり。今の社地は海に面して野径にあらず。今の往還の東北畑中に道あるを小栗街道という。道の側に仏井戸というあり。これ王子の旧地にて野径という。当れり、その社中世回禄にかかりて廃絶せるよし。寛文記に記せり、そののち更に、この地に祭れるなり

津井王子
仝 中村にあり。今叶王子と呼ぶ。御幸記に津井の王子とある、この社なり。津井村古老の伝に当社旧津井領にあり。後、印南に移したりという。

 斑鳩王子
仝 光川村にあり。今、富王子という。御幸記にいかるの王子とあるこれなり。
古歌に斑鳩や富の小川のといえる富いかるか共に大和国の地名なり。この王子も富といい、いかるかと云うは聖徳太子なとによしあるか事か。

 切目王子
仝 西野地村にあり
熊野御幸記に切部王子とあるこれなり。平家物語に平維盛熊野ヘ落る時この社前にて湯浅宗光ニ逢し事見たり。今、五体王子と云う。その称は神の御像五つあるを以て云う。或は地神五代なるを以て五代王子という。代体、音近きを以て転するなり。という。いづれか是なる事を知らず。
祝家の伝えに神号は覆天天雨宮何の義なるか知す。 後鳥羽院熊野御幸記の御時当社にて歌の御会あり。其時御懐紙を神前に納め給う。と天正十三年の兵火にかかりて社殿神宝ことごとく焼亡す後禁廷に願い奉りて、その写を給へりとて今社殿におさめて重宝とす。天正兵火の後尼ありて七ヵ月の間に社殿を再興すいう。今の妙法山尼屋敷というは 今社地の前街道を隔てて小高き所これなり。 其比丘尼の居りし所なちと云う。 或は神道者来りて七ヶ月の間に再興し造営終りて往く所を知らすと云う。
太平記に大塔宮の事ヲをせり日かくては南都辺の御かくれ家も叶かたければ則般若寺を御出ありて熊野の方へそ落させ給う。御供の衆には光林坊玄尊赤松律師則祐本寺の相模岡本三河坊武蔵坊村上彦四郎片岡八郎矢田彦七平賀三郎かれこれ以上九人也宮を始奉りて御供の者までも皆柿の衣に笈を掛けけ頭巾眉半に着其中ニ年長せるを先達に作り立て、田舎山伏の熊野参詣する体にそ、見せたるける。切目の王子に着き給う。其夜は叢祠の露に御袖を片敷きて、夜もすがら祈り申させ給いけるは南無帰命頂礼三所権現滿山護法十万の眷属八万の金剛童子垂迹和光の月明かに分段同居の闇を照らし迎臣忽に亡いて朝廷再耀く事を得せしめ給ヘ承る。両所権現は是伊弉諾伊弉冊の応作也我君その苗裔として今朝日忽に浮雲の為に隠されて冥闇たり豈傷ま左欄やまらさんや玄監空しきに似たり。神もし神たらは君なんそ君たらさらんと五体を地に投げて一心ニ誠を致してそ祈り申させ給いける。丹誠無ニの御感応なとかあらさんと御慮も暗に計られたり。終夜の礼拝に御窮屈有ければ御肱を曲げて枕として暫御目睡有ける。御夢に髪結いたる童子一人来テ熊野三山の間は、尚も人の心不和にして大義成りかたし是より十津河の方に御渡り候いて、時の至らんを御待ち候えかし。両所権現より案内者に附け進らせられて候えば、御道指南仕えるべくと申すと御覧せられ御夢はさめにけり。これ権現の御告也けりとたのもしく思召されけば、御未明に悦の奉幣を捧け頓て十津川を尋ねてそ分け入られ給いける。 其道の程三十余里か間には絶えて人里もなかりければ、或は高峯の雲に枕を歌で苔の筵を敷き、或は岩漏る水に渇を忍んで朽たる。橋に肝を消す山路、本より雨なくして空翠、常に衣を湿おす。向上れば万仭の青壁刀に削り真下は千丈の碧潭藍に染めり。数日の間、斯る嶮難を経させ給えば、御身も草臥はてて流るる汗は水の如く。御足は欠け損じて草鞋皆血に染れし御供の人々も、皆其身鉄石に非れば、皆、飢疲れてはかれか敷も歩得さりけり共。御腰を推し御手を挽きて路の程、十三日ニ十津川へそ着せ給いけるとあり。親王熊野の方に往くかせ給わす。此所より東北の方に転じて大和国十津川に至らせ給へり。 親王かく霊験を蒙らせ給いしより、後人神徳を崇み親王を景仰して社殿の東太鼓屋敷と唱うる所に小祠を造りて、大塔宮社と祀れり。近年安藤家より命じて、本社の側に遷し新に修営あり。且碑を建て其事蹟を表す

中山王子
仝 島田村にあり。 御幸記に超山、切部、中山の王子とある是なり。旧は今の社地より八町許東中山の内にあり、今、其の地を王子ヵ谷という。

岩代王子
仝 西岩代村にあり
御幸記に日参中山王子次ニ出浜参磐代王子此所為御小養御所無入御此拝殿板毎度被注御幸人数中略自是又先陣過千里浜此辺一町許参千里王子とあり、此文によれば磐代王子社の側に御小養御所あり、其所より千里浜を過ぎて、千里王子に詣て給いしなり。今、千里王子を去ること、西十町許東岩代村山内村の界海に臨みて、御所原という。小山あり。此御小養御所の跡なるべし。然ラらば磐代王子も旧此辺ニアリシナラン今ノ社地御所原ヲ去ルコト七、八町ニシテ御幸記ト符ハス東岩代ノ浜山内と接する所に天神社あり。疑うらしくは磐代王子の旧地ならん。この王子に参詣して板に姓名を書付る。例とおしくて新古今集にもこの事見えたり
新古今集神祇
熊野へまうて待りしに岩代の王子に人々の見ると書付け
させてしはし待りしに拝殿のなげしにかき付待りし歌
よみ人しらす
岩代の神はしるらむしるへせよ
このむうき世の夢の行末

千里王子
仝 山内村にあり。御幸記に見えたり。中世頽破に及びにし、万治中国主より獅子一対三具足絵馬等寄附あり。寛文四年拝殿建立ありて社殿備あれり

「紀伊国王子社略記」に見る熊野王子考 日高編  (文学博士 宮路直一)昭和12年

POLICY

 『熊野古道 日高編』policy

私たち「郷土の歴史や文化を学ぶ会」は、郷土の歴史を正確に知り、文化伝統と共に後世に伝えようと発足した歴史好きが集まった趣味の会でございます。日本の歴史はその時の統治者の都合により曲げられたり消されたりして伝えられてきました。例えば古典を代表する「古事記」「日本書紀」などは中央の権力者によって作成されました。明治には「伊勢=アマテラス」を崇拝し、「出雲=スサノオ・オオクニヌシ」や朝鮮文化を否定した政府。そのような状況の中で編纂された記録はすべて鵜呑みに出来ないのは周知の通りです。古代史の解明が進まなかったもう一つの理由は大和を除いた地域には古文書や考古学の成果資料があまりにも少なかったからではないでしょうか。近年になって発掘調査が活発に行われ、事実が徐々に解明されようとしています。 古代史は、「何が隠されてしまったか」を捉えることが解明の鍵となります。私たち「郷土の歴史や文化を学ぶ会」はゆっくりと時間をかけて歴史を学んでいきたいと思います。

○ 塩屋文化協会会長  郷土の歴史や文化を学ぶ会 事務局   溝口善久

Email mizo_aa@yahoo.co.jp

―参考文献―
御坊市史  熊野速玉神社古文書 石清水八幡宮古文書 日高郡史 塩屋村村史 紀伊国名所図絵  葵養園叢考 和歌山の研究 日本古代氏族人名辞典 日本史用語大辞典 日本霊異記  紀伊国の条里制 和歌山県史 家紋大全集 続日本紀 熊野誌 仏教芸術百四十二号 出雲風土記 出雲という思想   その他多数


『熊野詣での繁栄と衰退』

「日高」 地名の由来

日高の地名・出雲伝説との関わり

紀ノ國名所図会

紀州近世史料拾遺

熊野古道 塩屋散策マップ