祭り

塩屋王子神社の古来からの秋祭り
塩屋王子神社の祭礼は1300年もの歴史があり、青龍、白虎、朱雀、玄武の鉾、雉の羽根をつけた毛槍、弓などの御神儀が今もなお使われ続けています。現在使われている御神儀は室町時代に作られたとのことです。飛鳥の時代の塩屋祭では宮廷と同じ日(旧暦9月9日、重陽の節句)に同じように雉の肉を食べ、杯に菊の花びらを浮かべて酒を飲み、祭を行っていました。また、塩屋王子神社は古くから美人王子と呼ばれていて、社紋は二つ巴です。その時代の美人王子の美人とは、高貴な位にある女官の職名を言ったようです。

現在の塩屋王子神社秋祭り
現在の塩屋祭は古来の祭礼の行事と共に御輿、4体の獅子舞、四つ太鼓などがあります。
昭和55年(1980)からは美人王子にちなんで「美人祭り」を実施しています。祭礼の当日は、小学校の女児が巫女装束をまとい、神楽に合わせて巫女舞(越天楽)を神前に奉納しています。祭礼の当日は、小学校の女児が巫女装束をまとい、神楽に合わせて巫女舞(越天楽)を神前に奉納しています。
秋祭りは二十数年前、諸事情により10月の第3日曜日に催されます。

akimaturi1美人王子

 

 

 

 

 

 

四つ太鼓御輿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

塩屋の祭  (参考 御坊市史より)
はじめに
祭とは神霊を招き迎えて饗応し、あるいは神とともに籠もるなどして神を慰め和ませ ようとする集団行事で大きく分けて2系統がある。1つは部族・氏族単位によって行な われよって祀る氏神様である。もう1つは、単一の氏族ではなく一定の地域に住む人々 全部によって祀られる神は産土神(うぶすながみ)である、本来この二つの信仰は異質であるが、時代の 変遷とともに次第に混同され、今ではその区別もつかないままに現代の神社信仰の形態 となっている。したがって、伝統行事としての祭を考えたい。
古来、日本人は祭を営み祖霊をはじめ多くの神々を鎮め慰めることによって、災危か ら免れ、生産を高め、氏族あるいは集団の平安と繁栄を願い、その障害となる悪霊の追 放を祈願してきた。日本の祭が外国と異なり、神人が融和してともに食事をすることに 重きをおいていること、そしてその起源が遠く有史以前にさかのぽることである。
神霊は垂直または水平に天降(あも)り、天空から高い山や木ヘ、あるいは海から真っ直ぐに 島・海岸・川筋の丘などに降臨すると考えられてきた。神をもてなす神饌としては第一 に酒・餅が重んじられ、その他もろもろの海山の幸を供える。専門の神職がいなかった 時代は、集団から選ばれた者が神に仕えるために祭までの長い期間を精進潔斎しなけれ ばならなかった。物忌は不浄・産血・月水・傷害などで、特に死の忌が最も不適である。
祭の大きな変り目は、その参加者の中に見物が発生したことである(柳田国男『日本 の祭』)。はじめは集団の人々だけの祭であり、全員が神に奉仕していた祭が、それを 見物する人々が増えるに従って見せる祭へと変化し、見られる祭をより盛大にしようと の努力が祭の式々を整え、祭具を華麗にし、本来、神を慰めるための歌舞・音曲や、占 いをこめた競技なども次第に見せるための行事となってきたのは、祭の発展段階において止むを得ないものでしょう。
二 祭の特色
さきに述ベたように祭とは本来神事のことで、獅子舞や踊、あるいは屋台や四ツ太鼓 は神賑行事として、また余興としての行事である。一般に「今年は祭をする」とか「し ない」と言うのはこれらの行事のことであって、たとえどのような不作・不漁や暴風雨 ・洪水などの災害があっても神社では定められた日に祭を執行しているのである。しか し、一般の氏子は厳粛な神前式(神事)にあまり関係あるいは関心がなく、渡御や賑やか な祭礼行事をもって祭と考えているようである。だから「今年は獅子舞がない」、’四ツ 太鼓が出ない」ということで祭そのものが中止したと解釈しているのは大きな誤りであ るが、氏子たちが神賑行事や余興に参加し、見物することが祭の大きな意義となってい る現在、神事と祭礼行事を含めて御坊市及び周辺の祭を考えたい。
当地方の祭の特色として
(1) 八幡宮系統の奴祭
(2) 祇園社系統の山車祭
(3) 熊野系統の弓射やヤツハチ
などがあるが、御坊・熊野・藤井・土生等の祭は奴祭すなわち八幡宮系統である。これ に対して、美浜町の御崎神社・須佐神社・王子神社の3社は神紋(二つ巴)を同じくしているところから祇園社系統の山車祭であろう。山車は御崎神社には現存し塩屋王子は写真が残っている.

塩屋王子神社の祭
① 重陽会
塩屋王子神社の祭は「重陽会」で、もとは旧暦九月九日に行なわれていた。重陽とは 数字の奇数を陽数、偶数を陰数とし陽数の月日が並ぶ日、すなわち1月1日・3月3日 ・5月5日・7月7日・9月9日を節句と称している。陽の最大値九が重な9月9日を 特に重陽の節句と呼び季節がら菊の節供とも呼んでいる。この日に祭をした例は全国的 に多く、「クニチ」・「オクンチ」なども同義語で、9月19日・29日に行なつていた ところもある。現在祭の日・様式も変わっているがいまも塩屋祭が9月9日に執行して いた名残として渡御の先頭を重陽会の幟が行く。、
② 氏子の変遷
元来、南北両塩屋浦は山田荘九か村(名屋・北塩屋・天田・猪野々・森岡.南谷.明神川 ・立石・南塩屋)の有力な浦としてともに荘の産土神武塔天神社(現須佐神社)の氏下で あったか(名屋は水害により土地が流失現在地に移転した元和以降分離)、明治6年(1 873)北塩屋・天田・猪野々が分離して塩屋王子社の氏下となったのである。しかし、 七か村が塩屋王子社の祭にも参加していたことは史料からも明らかで、これらの村々は 武塔天神社と王子社の二重氏子であったと思われる。
須佐神社の祭
① 現  状
南塩屋を中心とする須佐神社の祭を通称「森祭」という。これは神社が塩屋町森岡に 鎮座しているからで氏子は森岡・南塩屋・明神川及び印南町の南谷・立石の各地区から なっている。もっとも近年は戸数が少なぃ関係で南谷・明神川立石が一組となって「南 明」といっている。この神社の秋祭も賑やかであるが、どちらかといえば春の「おとう 祭」の方が有名である。
② 里神の祭
塩屋両神社の氏子はさらにそれぞれのムラにおいても氏神または里神の祭を営んでい たようである。例えば南塩谷には「ダイジゴさんの祭」がああって、毎年10月25日 に飾り馬と獅子舞を出し、盛大な奉納相撲催していた(四つ太鼓は出さなかった)。
ダイジゴは『紀伊続風土記』記載の「大将軍社 社地周十間 南出にあり 長床あり」 の小祠と思われる。とすればこれらの村々は塩屋王子、須佐神社(旧武塔天神)、里神 社と三所社の祭と「おとう祭」に参加していたわけである。
③ 祭日の変更
塩屋祭が9月9日から19日に変更したのは同じ日に祭をしていた南塩屋(森祭)と王 子橋付近でよく衝突して喧嘩になったからである。クニチに祭をした習慣として当社で は4月19日に春祭、7月19日に夏祭、12月19日に冬祭といずれもの9日に祭を 営んでいるが、これらはもと3月9日・6月9日・11月9日であつたのが、秋祭に準 じて19日とし、さらに新暦になって一月遅れにしたものと思われる。
須佐神社祭(森祭)
もとの祭日は十月十九・二十日で塩屋祭の翌日に営んだが、塩屋祭の翌日は得てして 雨が多く、稲刈に差支えたので十月八・九日にしたといい、北塩屋の伝承と食い違って いる。しかし、塩屋の本祭と森の宵宮が同じであったので王子橋の付近でよく差し合っ た(衝突した)というのは共通である。また、須佐神社の例祭日が三月十日おとう祭(も とは正月十日)、四月十日春祭、7月十日夏祭、12月10日冬祭であること、明神川 では三月十日のおとう祭のことを「十日ドウ」といっていることなどから考えると、本 来はクニチの翌日の十日が祭日であつたのではなかろうか。
神賑行事と余興
祭が厳粛な抑事であることは先に述ベたが、一般にいわれている祭とはどのようであ るのかを神賑行事と氏子の余興に分けて述べる。神霊を慰めるために人々はさまざまな 神賑わしを考えた。歌・踊・獅子舞・馬駈などがそれであり、また後には、神事として 神意を占う弓射・綱引・操船なども神賑わしの色彩を深めてきた。そして神事・神賑行 事が余興的行事と混同してくるのは祭の変遷として止むをえない成行きであろう。
獅 子 舞
中国の獅子舞は、古くは唐の時代には存在したという。現在演じられる形は清の時代 に確立された形で、北方の北獅と南方の南獅の系統があり、競技もある。獅子頭と前足 に1人、後ろ足と背中に1人の2人と楽団で構成されている。旧正月や商店の開店祝い などの祝いで「招福駆邪」として演じられる。中国式の獅子舞は日本の中華街において も横浜中華街、神戸南京町、長崎新地中華街に獅子舞団がありイベントごとに演じられ る。日本の獅子舞は、中国から伝来したとされる日本の獅子舞は、全土に広がりバリエ ーションは多岐にわたる。大きく分けて、伎楽(ぎがく)系の獅子舞と風流(ふりゅう) 系の獅子舞がある。獅子の頭部(獅子頭:ししがしらと呼ばれる)は木製が多いが、和 紙による張子のものや最近では発泡スチロールによるものもある。舞方は諸流派があり 風流系(ふりゅうけい)、神楽系(かぐらけい)などが知られるが、他にも多くの舞が あり同じ物は二つとないとも言える。
伎楽系の獅子舞
伊勢神楽の獅子舞 (小正月の京都)伎楽系(神楽系)の獅子舞は西日本を中心とし て全国的に分布し、胴体部分に入る人数で大獅子、中獅子、小獅子と区分され大獅子で は、獅子を操作する人以外に囃子方も胴体に入って演奏し、小獅子では、獅子頭を操作 する1人だけが胴体も兼ねる。正月に見る獅子舞や神楽での獅子舞をはじめ、一般に獅 子舞というとこの系統の獅子舞を指すことが多い。起源は大陸から伝来したものと考え られ、現在の中国獅子舞とも繋がるものと考えられ仏教伝来と共に伝わったようである。
伎楽系の獅子舞には大別して幾つかの系統があり、そのなかでも流儀によって技法が 異なる。また、同じ流儀でも長い年月の間に地域あるいは組によって多少の変化があり、 それぞれ独特の舞いを演じる。御坊地方の獅子は大別して踊獅子と一般的な獅子舞(舞 獅子)の二つに分けられる。
① 踊獅子
県下でも日高地方にのみ遺存する獅子舞で、木彫りの獅子顕を使用し舞手二人と鬼 二人が演じる。この獅子は笛・太鼓・鉦・囃子等一切の音曲がなく、鬼の持つ矛とささ らの発する気配だけで舞うが、反閇など古風かつ、独特の技法で全国的にも例を見ない。 舞楽系統とも考えられるが、その起源や伝播について文献がない。地元では中世からの 儀礼として伝承しているが、神賑行事としてよりも神事的性格を帯び、頭屋獅子として 特定の地区(組)が継承、または各組が一年交代で勤めている。あるいは伊勢のお頭神事 の系統とも思われるが、現在のところ確証されていない。祭礼にあたっては先導役とな り、この獅子が進まなければ渡御道中を進めることができない。郡内に約10か所ほど あり、それぞれ鬼獅子・当屋獅千・重箱獅子・箱獅子・力ラ獅子などと呼ばれている。
② 舞獅子
一般にいう獅子舞で、赤と黒の雌雄によって多少技法が異なるが、いずれも二人立ち の唐獅子である。楽器は笛・太鼓・締太襲(デッツク・デッテコ・テッテコなどという) で囃す、獅子舞の主役は笛で、舞手は従であり、太鼓は囃子の添えものといって過言で ない。南塩屋の獅子舞は雄獅子で 北塩屋は雌獅子である。明治6年(1873)北塩屋・天田・猪野々が分離して塩屋王子社の氏下となるまで雌雄獅子はおそらく須佐神社において舞い、王子神社は山車祭でなかったと思われる。
獅子舞の曲名の系統としては伊勢系に属し、乱獅子(神来舞の一部か)と寝獅子を 演じる。内容はたいてい、山奥から深い谷間の狭い道を走り出して広い野原へ出た獅子 が、作物を荒らしながら蝶や牡丹の花に戯れて遊ぶ、やがて眠くなった獅子は次第に居 眠りを始めるがそれでも時々周囲の様子をうかがう、そのうち眠り込んだ獅子は猟師に 撃たれて手負いとなり暴れまわる。しかし神に諌められておとなしくなり、やがて神・ 人・獅子共に平安を喜ぶという筋書きである。
風流系の獅子舞
風流系の獅子舞は関東・東北地方に主に分布し、1人が1匹を担当し、それぞれが腹 にくくりつけられた太鼓を打ちながら舞う。東北の一部には7~8頭で1組の鹿踊もあ るが、もっとも多いのは3匹1組の三匹獅子舞であり、東京・埼玉などのかつて武蔵国 と呼ばれた地域の農山村では一般的な郷土芸能・民俗芸能となっている。3匹のうちの1 匹は女獅子(雌獅子)と呼ばれ、雄獅子が雌獅子を奪い合う女獅子隠しという演目を持 つところが多い。伴奏は、篠笛と竹でできたささらという楽器である。「ささら」をす る人は舞庭の四方に配置して、この楽器を奏するが、これを欠く三匹獅子舞もある。起 源は西日本の太鼓踊りあるいは陣役踊りといわれ、中心にいる数人が頭上のかぶり物を 獅子頭に変えたものが始まりだろうと考えている人が多い。しかし、東国の風流系の獅 子舞は、もっと古くからある日本古来の獅子舞であり、獅子頭(ししがしら)も本来は 鹿や猪を模したものであったと考えている人もいる。獅子頭は通常木製(桐製)であり、 獅子以外に竜頭のものや鹿頭のものもある。