日高の地名・出雲伝説との関わり

『日高の地名に見える、出雲伝説との関わり…』

六世紀から出雲と深い関わりのあった塩屋、奈良時代に編纂された『出雲風土記』を通して地名の謎を解いてみたいと思います。
出雲国風土記とは
奈良時代(和銅6年・713)の初頭、諸国に、郡郷名に好字をつけよ文内の物産の品目 リストを作成せよ、土地の肥え具合や山川原野の名前の由来、老人たちの伝える古い伝説などを書き記して提出せよ、というもの。

 

塩冶郷 ヤムヤゴウ 「塩屋」(左から 出雲の地名 よみがな 「日高の地名」)
 出雲市塩治エンヤ町北部から北部付近。阿遅須枳鷹日子命アヂスキヒコノミコトの御子、塩冶毗古能命ヤムヤヒコノミコトが鎮座されていた。だから止屋ヤムヤという。神亀3年(726)塩冶と改めた。6世紀なかば神門郡塩冶郷などを中心とする西出雲地方には大古墳が現れる。出雲市今市町の大念寺古墳、塩治町の上塩冶築山古墳などである。一方、塩冶郷の対岸の地には、健部郷の地名がみえる。
母理 モリ 「森」「森岡」
能義郡伯太町母理付近。天の下をお造りになった大神 、大穴持命オオカミ・オオアナモチノミコト(大国主命の別名)がおっしゃることには「我アが造り坐マして命シらす国は、皇御孫スメミマの命ミコト、平ら世ミヨ所知らせと依ヨせ奉マツる。但タダ   八雲立つ出雲の国は、我アが静まります国と、青垣山廻メグらし賜タマいて、玉珍タマ置き守りたまふ。」(私がお造りになってなって治めていらっしゃる国は天つ神の御子孫である天皇が平安に世を治めるよう、お任せする。ただ、八雲立つ出雲の国は、わたしが鎮座する国として、青々とした山を垣カキとしてめぐらしなさり、玉をお置きになってお守りする。)とおっしゃった。だから文理モリという。神亀3年(726)字を母理と改めた。
薗の長浜 ソノのナガハマ 「薗」
神門郡北部海岸の長い砂丘。今日出雲市に外園町、西園町などがある。
日御碕 ヒノミサキ 「日の岬」(杵築キヅキの御崎)
島根半島の西端。(日御碕を中心とする島根半島北西部一帯は海人の一大居住地だったと考えられる。)
賀茂郷 カモゴウ 「加茂郷」
賀茂の神戸カムベ安木市大塚町付近「和名抄」に「賀茂郷」とある。
熊野の大社 クマノタイシャ 「熊野大社
「神名式」に「熊野坐神社」とあり、出雲国の筆頭に記される。
伊布夜の社 イフヤのヤシロ 熊野:イヤ
「神名式」に「揖夜神社」。出雲町揖屋町の揖夜神社。イザナミの命他を祀る。
速玉の社 ハヤタマのヤシロ 「速玉大社」
「神名式」に「速玉神社」熊野大社に合祀ゴウシ
葦原の社 アシハラ 「吉原」
平田市西郷町の葦原神社
健部の郷 タケルベのサト
簸川ヒカワ郡斐川ヒカワ町東南部あたり。健部は交通上の要地などに設けられた軍事的部民。さきに宇夜ウヤの里と名   づけたのわけは、宇夜都弁命ウヤツベノミコトがその山の峰に天から降っていらっしゃった。その神の社が今にいたるま   でこの場所に鎮座していらっしゃる。だから、宇夜の里といった。そうして後、改めて健部と名づけたわけは纏向マキムクりの檜代ヒシロの宮で天下をお治めになった天皇(皇行天皇)がおっしゃったことには、「朕アが御子ミコ、倭健命ヤマトタケルノミコトの御名ミナを忘れじ」とおっしゃって健部タケルベをお定めになった。そのとき神門臣古弥を、健部タケルベと   お定めになった。その健部臣たちが昔から今に至るまでずっとここに住んでいる。だから、健部という。
日置郷 ヒオキゴウ 「日置」
出雲市神塩冶町付近志紀島の宮で天下をお治めになっていた天皇(欽明天皇)の御代に、日置の判部らが遣わされてきて逗留トウリュウして、政務をとったところ
斐伊の川 ヒイの川 「比井」
出雲の大河・ 斐伊川 斐伊郷
三屋の郷 ミトヤのサト 「山野」
飯石郡三刀屋町三刀屋付近 天ををお造りになった大神の御門ミトがここにある。だから三刀矢ミトヤ という。神亀3年(728)字を三屋と改めた。
「出雲という思想」 原武史 著
「出雲風土記」の神話性をよく示しているのは「意宇オウの郡」の地名のゆえんを述べた有名な「国引き神話」である。記紀神話には登場しない「八束水臣津野命ヤツカミズオミツヌノミコト」という神が、朝鮮半島や北陸地方から陸地を引き寄せてきて、出雲の国土を造成し、国造りがおわったときに「意恵オウ」という声を上げたことから、「意宇オウ」の名が付いたとする話であるが、この神のほかにも「出雲国風土記」には合わせて五十数柱もの神々が登場するのである。しかし、その殆どはスサノヲノミコト(須佐乎命、須佐乃袁命、須佐能袁命)とその子孫の神々や、自らもスサノヲの子孫であるオオクニヌシとそのまた子孫の神々といった、出雲系統の国つ神でしめられており、とりわけオオクニヌシは「天の下造らし大神の命」「天の下造らし神 大穴持命オオアナモチノミコト」として何度も登場し、出雲の国を回って「国造り」の指導に当たったとされている。「出雲国風土記」の国造りの記述は、「古事記」や「日本書紀」に比べてはるかに具体的であり、民間伝承に密着している。そして、オオクニヌシには、「天の下造らし」や「大神」という最大級の尊称がかぶせられ、一貫して主人公として扱われている。その反対に記紀神話の主人公であったアマテラスやニニギなどの天つ神は全く出てこないのである。江戸時代の国学者、本居宣長は「玉くしげ」で次のように述べている。さて、大国主命と申す神は、出雲の大社の御神であり、はじめにこの天下をお造りになり、また八百万の神々を統率して、右のお約束の通り、世の中の幽事を主宰される神でいらっしゃるので、天下の身分の高い人も低い人も、おそれ敬い崇敬スウケイ申し上げなくてはならない神である。